TLの情報で知り、玉川大学まで泉太郎の個展を見に行く。軽い気持ちで行ったのだが、校門のところで守衛に呼び止められて、来校目的を尋問される。住所と名前を所定の用紙に書き、入校許可証をもらって、ようやく大学の構内に入る。あきらかにここでは自分は「異物」なのだと実感する。
2011-10-01 20:16:26首から提げた入校許可証はとても目立つ。会場でも受付にいた女性が寄ってきて「このイベントのことは、ネットかなにかでお知りになったんですか?」と尋ねられる。「いや、たまたま前を通りかかったので」と喉元まで出かかるが、バレバレなので「ええ、まあ・・・」と仕方なく認めてしまう。
2011-10-01 20:17:30しかし「異物」たる自分が、わざわざ鉄道に乗り、本来は入ることも許されないこんな若者たちの楽園の深奥にまでのこのこと「展覧会を見に来た」と告白することの、なんと恥ずかしいことよ! それは身内を騙って女子校の体育祭に侵入したときと同じくらいの恥ずかしさなのだ(想像比)。
2011-10-01 20:19:21さて肝心の泉の個展だが、その「異物」感がよく表現されていてとても良かった。カメラを持った泉が学生たちを追いまわす映像や、「伝言トーク」に特に象徴的だったが、学生と「一緒に」作品を作っても、泉と学生の間には決して混じり合うことのない「一線」が引かれている。
2011-10-01 20:20:41その「一線」こそが見るべきものなのである。当たり前だが、これらは学生と一緒に楽しくワークショップした記録とかでは全然ない。それどころか泉の作品において、泉と学生は同じ「人間」の階層にすらいないのだ。両者は互いに存在としてはほとんどエイリアンにも近い。
2011-10-01 20:21:50こないだMOTの常設に出ていた作品もそうだったが、最近の泉の作品にはどーしても泉の「キャラ化」を感じてしまうのだった。「キャラ化」してしまうと、つまりは「異物」感が薄れるのだ。世界に対して引かれた「一線」が見えなくってしまう。見る側との関係が「ナアナア」になってしまうのだ。
2011-10-01 20:22:33それに対して今回は大学内という状況を逆手に取って、その「異物」感を取り戻しているように感じた。最近見た泉の展示のなかでは出色の出来だったが、それはこのシチュエーションに負うところが大きかったように思う。
2011-10-01 20:23:16ただ粘土の作品に関してだけは、それがあまり感じられなかったかな。「異物としての泉」の存在が作品内に見えないためか。学生の存在や作業を根こそぎ反転する要素が、この作品に限ってはあまり感じなかった(その意味ではフツーのワークショップに一番近いのか)。
2011-10-01 20:24:02玉川大学での泉太郎展。僕にとって彼の作品が持つ面白さのひとつは、映像という媒体の性質を浮き彫りにするところ。その点では、ガラスに投影されていた作品がもっとも鋭く感じた。上下左右に移動する白い紙のフレームと固定されたプロジェクション自体のフレーム。スクリーンのこちら側と向こう側。
2011-10-03 18:39:22ビデオカメラで学生を追いかけ回す作品は、やりようによっては映像という媒体だけでなく撮影(shooting)という行為の暴力性に対して強い批評性を喚起できたと思うんだけど、それよりも遊戯性が勝っていて、そこは僕としては残念。
2011-10-03 18:39:452004年に僕が企画したグループ展に出してもらった作品「コントロール・アワー」 http://t.co/n1aQSG1Y では、他者の像を強奪し、フレームの中で好きなように操作するという映像/撮影の暴力性が際立っていた。撮影者および編集者と被写体との間にある絶対的な非対称性。
2011-10-03 18:40:48でも、水野亮さんがつぶやいていたように、泉くん自身と他の人々との非対称性は、今回展示された作品の多くにおいて、かなり不気味に提示されてた。ひたすら無言の泉くんがビデオカメラで学生を追いかけ回し、数字とアルファベットの書かれた紙を受け取る。
2011-10-03 18:43:07でも一番不気味だったのは、壁に顔を描く学生たちを別の学生が持ち上げて動かす(持ち上げられながらも描き進める)作品。そこには泉くんの姿が登場しないのだが、明らかにこの行為は泉くんのインストラクションによってなされている。不在の泉くんが背後にいる。彼らは操られてる…!
2011-10-03 18:44:34水野さんの言い方を借りれば、泉くんが「人間」の階層にいるとしたら、ほかの学生たちは「人間以下」の階層にいるというような(実際に「おまえら人間以下じゃ〜!」と言ってるわけじゃないからね。念のため)。あるいは進んだ文明からやってきた異星人としての泉くんと地球人たち。
2011-10-03 18:46:25僕が泉くんの作品にはじめて触れたとき、僕を引き寄せたのはこのような非対称性であり暴力性であり不気味さだった。このことを思い出せただけでも良かったなぁ。
2011-10-03 18:47:39@oqoom あ!おれもあの作品が一番好きでした。削ぎ落とされててかっこよかった。泉さんが動かしてる紙っていうフレームと、プロジェクションされてる映像っていうフレームと、あと被写体と鑑賞者が同じ空間にいるっていうもう一つのフレームがあるのかな~と、作品見てて思いました~。
2011-10-03 18:54:49あと、僕は泉くんの作品における「映像のメディウムを問う」点にばかり注目してたのですが、薮前さんのつぶやき http://t.co/wOCdEb99 で思い出したけど、(今回の展示でも最近の展示でも)絵画や彫刻のメディウムもまた問いかけてますね。
2011-10-03 18:59:11とはいえアウトプットの形としては、いつも絵画や彫刻だけでなく映像が付随してくる。そこにこだわりがあるんだと思うけど、うーむ。今度泉くんに会ったら聞いてみよっと。
2011-10-03 19:00:19@kubotata たしかにそうだねー。単純だけどいろんな要素(遊戯性とかインストラクションとか)が渾然一体でかっこよかったよね。
2011-10-03 19:01:47.@oqoom 実は僕も今回の展示を見て、この「コントロール・アワー」を思い出しました。ものすごく久々に。「あっ、あの感じだ!」と。
2011-10-03 20:29:03.@oqoom 例えば去年の神奈川県民ホールでの個展では、影像中に出てくる泉以外のボランティアたちが「楽しそう」に見えるのが不満だったのですが、今回は学生たちが楽しそうにしていても、それ自体を呑み込んでしまうような構造を作っていた。あきらかに自覚的に。
2011-10-03 20:30:34.@oqoom その象徴が、僕も壁に絵を描く作品だったと思います。この作品は基本構造からすれば泉一人でも制作可能なんだけど、学生にそれをさせることによって、学生が作業している階層が最終的に泉の設定した作品の主根幹に根こそぎ全部持ってかれるという不条理をも孕んでいる。
2011-10-03 20:31:33.@oqoom 奥村さん企画の展示では、あの「階段の突き当たりの踊り場」という展示状況が、作品の持つ「世界に対するネクラな悪意(:非対称性、暴力性、不気味さ)」を増幅していたと思います。今回は「あの感じ」を凄く思い出しましたね。対世界のスタンスが似てる(というか見えやすい?)と。
2011-10-03 20:32:36.@oqoom その意味では、今回の展示に対して、ヨコトリでの展示が泉太郎のニセモノが作ったんじゃないかっていうくらいツマラナク見えたのは、あーいう場では「対世界のスタンス」が定めにくいのかなーとなど邪推したりもしました。「異物」たりえない、というか。
2011-10-03 20:33:32