土佐15代藩主・山内容堂の生涯をまとめてみた

土佐藩15代藩主・山内容堂の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1872年7月26日(明治5年6月21日)幕末の外様大名で土佐藩15代藩主の山内容堂が脳溢血で亡くなりました。享年46歳。 幕末の四賢侯の1人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されました。 #幕末 #土佐藩 #幕末四賢候 pic.twitter.com/elLmLBEgLo

2018-07-26 21:41:06
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1827年11月27日(文政10年10月9日)山内容堂(豊信)は土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男として誕生しました。母は側室・平石氏。 豊信生家である山内南家は石高1,500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下でした。 pic.twitter.com/mpShfd31wh

2018-07-26 23:20:08
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通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育てられますが、豊信は分家の出だった為、高知城下で生まれ育ちました。 本来ならば、藩主山内家の分家・南邸の長男としてその生涯を閉じるはずでしたが、13代藩主・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が相次いで急死してしまいます。

2018-07-26 23:20:10
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豊惇は藩主在職僅か12日という短さでの急死で、山内家はお家断絶の危機に瀕します。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)が居ましたが、 当時はわずか3歳だった為、分家で当時22歳の豊信が候補となりました。豊熈の妻・智鏡院の実家に当たる島津家などが老中首座・阿部正弘に働きかけ pic.twitter.com/FIRnDE7DhF

2018-07-26 23:20:10
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【Togetter投稿用】高知県高知市鷹匠町に在る山内容堂公邸跡。 pic.twitter.com/qwBUx4JS0s

2018-08-23 12:21:58
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豊惇は病気で隠居したという形をとり、1849年1月21日(嘉永元年12月27日)豊信が15代藩主に就任します。 この時の智鏡院の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われています。

2018-07-26 23:20:11
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藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用します。 1853年(嘉永6年)東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの pic.twitter.com/3L0jxiOh2R

2018-07-26 23:20:11
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藩政改革を断行します。翌1854年(安政元年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいを起こし失脚し、謹慎の身となりますが 3年後の1857年(安政4年)再び東洋を起用、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らも起用します。 pic.twitter.com/0DT8JsW0Bi

2018-07-26 23:20:12
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豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と称されます。 彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えました。しかし、阿部正弘死去後に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立します。 pic.twitter.com/JXEaV9kQl6

2018-07-26 23:20:13
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13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かった為、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していました。 一方の井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推していましたが、井伊は大老の地位を利用し政敵を排除。結局、慶福が14代将軍・家茂となる事に決まりました。 pic.twitter.com/dLZZUdf7dl

2018-07-26 23:20:14
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慶福を推していた大老・井伊直弼は反対派の処分を実行します。いわゆる「安政の大獄」で、これにより容堂は隠居を余儀なくされ 以降約3年の間、謹慎の身となります。 謹慎の間、土佐藩の政情は大きく変化していきました。尊王攘夷論を主張する武市半平太が土佐勤王党を結成し pic.twitter.com/s1EQCgIDZo

2018-08-04 01:27:46
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尊攘派の指導的立場をとる長州藩と密に連携をとるようになっていたのです。 さらに容堂が謹慎を解かれる直前には、容堂の片腕として藩政改革を行っていた吉田東洋が土佐勤王党員によって暗殺されました。 これにより武市らは藩上層部を尊攘論へと傾かせて16代藩主・豊範を担ぎ pic.twitter.com/PMqsPj333M

2018-08-04 01:27:48
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土佐藩は長州藩とならぶ急進的な勢力になりつつあったのです。 しかし1863年9月30日(文久3年8月18日)に起きた「八月十八日の政変」で尊攘派が放逐されると、既に謹慎を解かれていた容堂はこれを好機として勤王党員の追及・処分を実行しました。 pic.twitter.com/vpKb1w8yS6

2018-08-04 01:27:50
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藩主の座から降りた容堂でしたが、藩内外への影響力は依然として大きなものでした。朝廷からも上洛の命が度々下り、諸侯会議にも二度参加しています。 しかし、当時懸案となっていた長州藩の処分問題や外交問題については静観の立場を崩しませんでした。容堂は思想が四賢侯に共通する

2018-08-04 01:27:51
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「公武合体派」でしたが、藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷にも奉仕し、幕府にも良かれという行動を取っていました。 この為、幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、 pic.twitter.com/DG2cBw8D4L

2018-08-04 01:27:52
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のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派の方がはるかに始末が良い」とまで酷評されています。 1866年3月7日(慶応2年1月21日)吉田東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士 坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の仲介で薩長同盟が成立。これによって時代は明治維新へと大きく動き出しました。 pic.twitter.com/nfC1JBAcbv

2018-08-04 01:27:53
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【Togetter投稿用】高知県高知市鷹匠町に在る旧山内家土佐藩主下屋敷跡 山内容堂・西郷隆盛会見の地 (現:三翠園) 1867年3月22日(慶応3年2月17日)山内容堂は、土佐藩士・福岡孝弟を従え 薩摩藩士・西郷隆盛・吉井友実と会見しました。 pic.twitter.com/rJqyoRkppe

2018-08-23 12:35:25
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1867年6月6日(慶応3年5月4日) 容堂は薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加しますが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席し続けます。 結局この会議は短期間で崩壊します。しかし、6月23日には薩摩藩士の小松帯刀の京都邸において 中岡慎太郎の仲介で

2018-08-04 01:27:55
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土佐藩の乾(板垣)退助・谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛・吉井友実らが武力討幕を議して「薩土密約」を締結し、翌24日に乾退助から密約の内容が 容堂に報告され、容堂は大坂でアルミニー銃300挺の購入を許可します。容堂は乾退助を伴って、7月初旬に土佐に帰国しました。 pic.twitter.com/h3vh4lhkMM

2018-08-04 01:27:55
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すると、容堂や乾退助と入れ違いに上洛した坂本龍馬・後藤象二郎らによって薩土密約から約一ヶ月後にあたる7月23日、京都の小松帯刀邸にて 大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、らが議して武力討幕ではなく大政奉還による王政復古を目標に掲げ、薩土盟約を締結されます。 pic.twitter.com/FLoyc04yoz

2018-08-04 01:27:55
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しかし、薩土盟約は約二ヶ月半で早々に瓦解し、乾退助と西郷隆盛が結んだ薩土密約が次第に重視され、土佐藩全体が徐々に討幕路線に近付いていきます。 容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けますが、倒幕へと傾いた時代を止める事は出来ませんでした。

2018-08-04 01:27:56
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幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案と「船中八策」を坂本龍馬から聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言。 容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白します。これにより1867年11月9日(慶応3年10月14日)大政奉還が行われました。 pic.twitter.com/6T59y9ugex

2018-08-04 01:27:57
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ただ「船中八策」については、後世に作為されたフィクションではないかという指摘もあります。 「船中八策」という言葉が登場するのは大正時代に入ってからで、それ以前の「船中八策」は様々な別の名称や内容で紹介されているからです。 また、坂本龍馬は大政奉還後の11月に船中八策と内容が共通する

2018-08-04 01:27:58
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「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数自筆していて、これについては、龍馬自筆のものが国立国会図書館と下関市立長府博物館に2枚現存しています。 ※下記画像は下関市立歴史博物館より、購入した図録の一部掲載許可を頂いたものです。 pic.twitter.com/kUQqlKe95g

2018-08-04 01:27:58
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しかし「大政奉還」は15代将軍・徳川慶喜が形式上、政権を朝廷に返還したに過ぎないものでした。何故なら容堂は大政奉還の後の事を見越していたのです。 将軍が政権を朝廷に返す事で、諸大名連合に寄る政治体制を容堂は目指していたからです。また幕府がこれまで行ってきた国政の全てを pic.twitter.com/zhihvgXCBJ

2018-08-22 19:00:47
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