土佐15代藩主・山内容堂の生涯をまとめてみた

土佐藩15代藩主・山内容堂の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

当時の朝廷に行う力が無かった為、政権を朝廷に返したところで自身を抜きに新しい政治は行えないだろうという慶喜は考えていたのです。 しかし、その後 明治政府樹立までの動きは終始、薩摩・長州勢に主導権を握られてしまいます。

2018-08-22 19:00:48
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1868年1月3日(慶応3年12月9日)に開かれた小御所会議で薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加します。 容堂は、自身が支持していた徳川家も新政治に参加させる方針に真っ向から対立した岩倉具視らの意見を一部公卿による陰謀と決め付け、

2018-08-22 19:00:48
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大政奉還の功労者の徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張します。また、岩倉・大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定した事については、 薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと pic.twitter.com/G3t4Kukox8

2018-08-22 19:00:48
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徳川家も擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したことに対して、徳川氏を中心とする列侯会議の政府を要求しました。 この意見に福井藩主・松平春嶽は同調しますが、容堂にはただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖があったようで、 pic.twitter.com/Ty5K68QHYk

2018-08-22 19:00:49
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その上にこの時酒に酷く酔っていた容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威を欲しいままにしようとしている」などと失言してしまいます。 堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて天皇の決断によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」

2018-08-22 19:00:50
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「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されますが、泥酔状態の容堂にまともな返答が出来るはずもなく、会議は容堂を無視して天皇を中心とする倒幕強行派のペースで進んでしまいました。 そして、同日 「王政復古の大号令」が発せられ、形勢は逆転。

2018-08-22 19:00:51
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容堂はその後も徳川家救済の為に奔走しますが、その後の戊辰戦争の勃発によって完全に潰えてしまいました。 自身の思いとは異なる政府の中で、容堂は内国事務総裁や学校知事に就任しますが、かつて家臣や領民だったような身分の者と馴染む事が出来ず、1869年(明治2年)に全て辞職。 pic.twitter.com/2ZzxFEcAxr

2018-08-22 19:00:51
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しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては明治政府の将来などについて語り合っていたそうです。本邸は新たに東京箱崎の元田安徳川家別邸を買収して居住しました。 隠居当時は別荘地として知られた橋場(現:東京都台東区)の別邸で、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な生活を送っています。 pic.twitter.com/x3jxVCgiia

2018-08-22 19:00:52
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また、武市瑞山を殺してしまった為に土佐藩内に薩長に対抗出来る人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいわれます。 健康を害していた容堂は友人でもあった松平春嶽の勧めもあって、箱根へ保養旅行に出かけるなどしていましたが pic.twitter.com/VBjfdYEQ8q

2018-08-22 19:00:52
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1872年(明治5年)積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳の生涯を閉じました。墓所は土佐藩下屋敷が在った大井公園(現:品川区東大井4丁目)に在ります。 46歳で急逝した容堂は、遺言により晩年愛したこの地に葬られたと伝わります。 pic.twitter.com/OJmCPe0UNN

2018-08-22 19:00:53
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この辺りはかつて下総山と呼ばれていましたが、土佐藩の屋敷になってからは土佐山と呼ばれたそうです。 「鯨海酔侯」と自ら称する程の大の酒好きだった山内容堂。分家の出身でありながら、15代土佐藩主を継いだのも運命だったのかも知れません。 pic.twitter.com/2HTh3U2J90

2018-08-22 19:00:54
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