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いぬのせなか座・山本による、上妻世海『制作へ』刊行記念トークイベントに向けてのメモ

11/3(土)19:00-21:00にNADiff a/p/a/r/tで行われるトークイベントに向けての、いぬのせなか座・山本によるメモ。 ご予約はこちらから。 http://www.nadiff.com/?p=11653 続きを読む
いぬのせなか座 上妻世海
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(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
上妻さんとのトーク(nadiff.com/?p=11653)のために、安川奈緒「感傷的筋肉、詩的虚構について」「技術の感傷的な身体」、宮川淳による荒川修作論(多数)、など再読
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よるおわさんに、山本に近いのではないかと言われ、安川奈緒「感傷的筋肉、詩的虚構について」(『トルタの国語 冒険の書」』)を読んだ なるほど……《抒情主体とは、ある始原の、主体の成立にかかわるミメーシスを、言語との関係に転移、投影することによって繰り返すところのものなのではないか》
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《「疎外」された主体の形象を前提とし、最後の最後に「作者」の仮構への「意志」を言わざるを得ない形而上学は、必然的に敗ける。だがしかし、「発話者」は無償で成立するものではないかもしれないこと、それは「詩人」が詩を書いていれば無償で成立するわけではないのと同じように、
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そうであるかもしれないことを、北川の入沢批判は、思い出させてくれる。》
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《荒川修作はいわばデュシャンとマグリットの中間に位置しているように思われる。》《〔事物がことばに置き換えられていった先で〕なお残るものがあるとすれば、それは空間的な配置である。コンポジションというべきだろうか。》宮川淳「絵を見ることへの問い」
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《荒川修作があらわれ出させるこの未知の空間》《この空間、それを見ることの空間はその手前に、画面と見る者との間にあるからである。  われわれは画面の背後の、いいかえれば事物にまで到達せず、画面の表面で反射され、ことばに収斂される。画面は事物とことばとを切り離す表面である。
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無限の往復運動が錯像するこの厚み、われわれの絵を見ることを可能にさせると同時に、〈絵画〉を成立させ、この空間そのものの中に、一枚の物質的な平面に還元されることのできない〈作品〉を出現させるのは、この非人称的な空間である。  メディアとしての空間について考えること。いいかえれば、
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ことばがあるいはそれと対立させられる意味でのイメージが、メディアなのではない。われわれをとりまく、この見えない非人相的な空間そのものがメディアなのだ。》同前 素材としての制作的空間。
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《〔荒川初期作品が作る〕この世界の忘がたさはその薄明の光のひょうな非人称性だろう。それは例えばアンチロマンの作家ロブグリエの小説「嫉妬」の決して姿は見せないが、たえずそこにいることをやめないあの無名の眼を想わせる。この影の世界はおそらくこの無名の眼に対応している。
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この無名の眼、それはもはや見ることの可能性ではなく、見ないことの不可能性でしかないだろう、そして、この眼にとって、すべては影、つまりもはや存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性でしかないだろう。》宮川淳「荒川修作」『美術手帖』1966年1月号
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《ぼくの言ってるのは、非人称的視線の位置、それが生まれてくる場を指したり、マークができるようにするためには、つくられている建物であれ、道であれ、風景であれ、一度、人工的につくり直してみようじゃないか、そして非人称の視線が生まれてくる位置を明確にしてみようじゃないか、ということ
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なんですよ、そして、それがどれぐらい、どのように共同性を帯びているのか。あなたがその状態を経験するとすごく懐かしかった。おれも懐かしかった。おれも、おれも……、そうやってみんなが共通した懐かしさを覚えた時に、それぞれ違う表現がでてきても、懐かしさにおいて経験したとしたら、
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
何がどこが懐かしいのか、今度またつくってやろう、となる、そういうやりかたなんですよ。 懐かしさというのは、経験だけじゃなくて、「私」の意識の交感可能なところだから、いわゆるランディング可能なところです。そのようにして人間の意識がこの地球上に生まれてきたんだとしたら、
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
固有名詞はまったく必要ないもの。そうだとしたら、人間がつくりあげた法の下に、世界のなかに、身につけちゃいけないものをつけてしまったんだな、ということが明確になる世界、それを一度、インスタントに早くやってやろうということ。》荒川修作+小林康夫「身体の幽霊化、イメージとしての身体」
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中原佑介の「影と神秘の画家たち」は、影論争のきっかけになったからか高松次郎との比較の文脈でばかり語られてるけどふつうに最初期の荒川修作論としてそうとうぎょっとする内容だと思う 荒川のデ・キリコ理解やダヴィンチ理解とかも考えるといろいろおそろしい
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
かなり錯乱した短いテクストだけど、カテゴリーを用いて抽象化した対象=影をさらに画布上において事物として扱うことで複数対象間の具体的類似関係(aはbの影である)を構成し、その模索をすなわち運動する環境と画布との間の関係性(静止画による運動の記述の手立て)の模索とすること、とかが
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ダヴィンチの手記への参照(おそらく遠近法を模索する上での影への重視を念頭においたもの)から始まり、デ・キリコを極地とした上で、荒川の最初期の、言葉ではなく影をメインにおいたダイアグラム絵画を評価する。荒川はその後、すぐに影を文字に置き換え、事物間の類似関係を重視することになる。
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ダヴィンチに関して言えば荒川はダヴィンチが生命を類似の問題として考えていたと言ったり、自らのダヴィンチ理解として頻繁に引用する「作者が死んだ後どのように新たな作者が作られるか」という言葉はダヴィンチの手記の該当箇所を見ると影と光の関係について書いてる箇所に書かれた言葉だったりする
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
デ・キリコについて言えば、荒川はデ・キリコを神とかボディアーティストとか言ったりするのと同時に、マグリットはデ・キリコがいないとあり得なかったと言ってみたり、デ・キリコは若い頃にぜんぶの要素を書き尽くしてそれ以降はそれらを組み合わせて自らを作り続けたと言ったりする
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
もちろん荒川の基礎にはデュシャンのアンフラマンスをどう考えるかという問いが徹底してあり、そこで事物間の類似関係と私の毎秒ごとの分断と持続の問題が思考されるわけだけれど、影を用いたダイアグラムという露骨なデュシャンオマージュだった1964年から文字を用いる1965年に進めたことに
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
中原のテクストがあったようにどうしても見える。さらに言うと荒川は無名とか無人称とか晩年まで言うけど宮川淳は影論争の裏で1965年12月の時点で荒川にロブ=グリエ的無人称性を指摘し、「この世界が現前するのはまさしく、その影をあらわにするという形においてなのである」と言ってる。
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
それから宮川はいろいろ影論争のなかで書くけれど、そこでもやっぱり1969年にフーコーのマグリット論翻訳とともに『美術手帖』に載せたテクストで、デュシャンとマグリットの中間に荒川を置き、画面と見る者との間の無人称的な空間を明らかにする「空間的な配置」の試みを荒川に見る。
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
で、1975年に荒川論をまた書く。そこでは完全にシニフィアンとシニフィエのずれを生じさせる表面っていう問題になってる。これを見ると、ふーん、だけれど、荒川は三浦雅士に「表面の起こすズレって荒川さんのダイアグラムとはちがくない?荒川さんのやつはズレじゃなくて正確さでしょ?」と
(∵`)<hiroki_yamamo+h @hiroki_yamamoto
荒川が最初期の頃から言ってることからするとそうだねって感じのことを言うけれど荒川はそれに対して、いやいや宮川が言ってるのは昨日の私と今日の私がともにあるものを見るときに生じるずれなんだ、という。私の持続と対象の間のそれぞれのずれと、結合。荒川は宮川への追悼を二度書いてるけど、
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