佐藤正美Tweet_20181216_31

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佐藤正美 @satou_masami

有島武郎氏の「惜しみなく愛は奪う」は、「懺悔録」に近い性質だと私は思っています。簡潔で精緻な文体の随筆・短篇を好む日本人の感覚からすれば、有島武郎氏の文体はバタ臭い(翻訳調の)様に、そして作品も二元論的な文学青年的(青臭い)性質に感じられるのでしょうね。

2018-12-16 11:51:22
佐藤正美 @satou_masami

でも、当時の日本で、あれほどの構成力を持った作家は他には存しないでしょう。思想の揺籃を感じさせる作家は、当時、有島武郎氏の他に私は識らない──だから、私は彼に惹かれる。

2018-12-16 11:52:11
佐藤正美 @satou_masami

有島武郎氏の作品が せっかちな文学青年的臭いを放って、文体がバタ臭い舌足らずに様に思われるのかもしれないのですが、作家が「他」を描いて「自」に徹した、「自身が『思想』と向きあって戦っている様(さま)を晒した」状態だと云っていいでしょう。

2018-12-16 11:52:49
佐藤正美 @satou_masami

「思想」 と向きあった作家たちは、自然主義文学の以後に多いのですが、社会の中での「自」を凝視している傾向が強い──例えば、芥川竜之介氏──、しかし、社会に対して個性を謳った(当時の)作家は、有島武郎氏(と武者小路実篤氏)しか私は識らない。

2018-12-16 11:53:29
佐藤正美 @satou_masami

有島武郎氏の作品とは正反対の作品にも私は惹かれる──例えば、川端康成氏の作品。「国境の トンネル を抜けて、べつの世界に入って」事態を凝視するという作品も私は大好きです。「雪国」 と 「眠れる美女」 を──それらが私小説と称されるのかどうかはわからないのですが──私は大好きです。

2018-12-16 11:54:27
佐藤正美 @satou_masami

ちなみに、「雪国」は、長編小説というふうに云われていますが、西洋の長編小説に較べたら、(短篇ではないにしても、)中編くらいではないかしら。川端康成氏の文体で「戦争と平和」を綴られたら文 [ 行間に込められた情感 ] が濃稠すぎて、私は読む気がしないでしょうね。

2018-12-16 11:55:03
佐藤正美 @satou_masami

小説のテーマは、作家の人生観に依って選ばれるのであって、自身の精神に即しないものを狙っても こじつけ になってしまうので、作家は、当然ながら、自身の人生観を託すように作品を構成するでしょうが、「社会と対決した個性」を(日本の作家たちは ほとんど)謳わなかった。

2018-12-16 11:55:46
佐藤正美 @satou_masami

その対決は、プロレタリア文学として初めて「思想」と対決する事になるのですが──ただし、その文学が「個性」を重視したかどうかは疑わしいのですが──、そうとうな文学的混迷を生じた事は文学史が記しています。

2018-12-16 11:56:21
佐藤正美 @satou_masami

「惜しみなく愛は奪う」で彼が論じた「本能的生活」は、社会と戦う個性の究極形としての訴願であって、その究極形は社会的制度の中では自然な帰結として個人の敗亡に至るのは壮大なパラドックスで、「社会生活も私生活も信じられなかった末、発明せざるを得なかったもの」ではないかしら。

2018-12-23 11:21:31
佐藤正美 @satou_masami

いっぽうで、小説の「技法の改革」だけに走った日本的自然主義文学を疑って、思想を練(ね)っていた作家たちが夏目漱石・森鴎外・芥川竜之介でしょう。ひょっとしたら、芥川竜之介は、思想の挾間(西洋的思想と東洋的思想のあいだ)で揺れていたのかもしれない。

2018-12-23 11:22:38
佐藤正美 @satou_masami

私は、群れをなしてやって来る思想を疑う。思想とは、或る理想を育んで、それを生活の中に取り込もうと工夫して考える人が、その理想に向かって生活の中で実現した精神(個性)でしょう。だから、良い思想は、ただ独りでやって来る。

2018-12-23 11:23:26
佐藤正美 @satou_masami

当時の日本の社会では、実証主義は、作家が自らの生活を賭してまで戦うべき思想として根づいてはいなかったのでしょうね。そして、「文学自体に外から生き物のように働きかける社会化され組織化された思想の力というようなものは当時の作家等が夢にも考えなかった」(小林秀雄)。

2018-12-23 11:24:05
佐藤正美 @satou_masami

だから、後(のち)にマルクス主義という思想に直面して作家たちは戸惑う(もしくは狼狽える、または盲信する)始末になったのでしょうね。

2018-12-23 11:24:38
佐藤正美 @satou_masami

日常生活に反抗を覚える青年が、自分を実証する仕事を持たぬままに社会思想を学べばどうなるかは想像に難くない。「思想」に酔う。「思想」は、観念的な普遍的な姿のまま(消化過程を省いて)青年の指導的役割を担う様になる。過去を持たぬ「思想」が接ぎ木された状態で生(は)えている。

2018-12-23 11:25:07
佐藤正美 @satou_masami

そういう状態は周りの人たちから観れば、滑稽な態にしか写らないが、本人にしてみれば、苦悶の中で取得した自我の一部だと思い込んでいる。

2018-12-23 11:25:42
佐藤正美 @satou_masami

もし、そういう青年が観念的に陥っている疚(やま)しさを幾許(いくばく)かでも感じていれば、「生活哲学」に憧れる事になるのだろうけれど、青年においては それも観念の域を出ない。

2018-12-23 11:26:16
佐藤正美 @satou_masami

念のために断って置きますが、私は、そういう青年を非難しているのではないのです。もし、そういう青年が、仕事にいずれ就いて、かつて学んだ「思想」を校正する(時には、撤回する)意志 [ 意識 ] を持っていれば、「思想」は無用ではなかった。

2018-12-23 11:26:53
佐藤正美 @satou_masami

「思想」は、精神の盲腸としてぶら下がっているものじゃないし、都合に応じて たびたび着替えられる衣裳でもない。「自分」という一つの精神的表現が「思想」ではないかしら。

2018-12-23 11:27:24
佐藤正美 @satou_masami

「日常生活が、新しく現れた作家等によって否定されたのは、彼らが従来の日常生活を失ったからではなく、彼らの思想が、生活の概念を、日常性というものから歴史性というものに改変する事を教えたからである」(小林秀雄、「私小説論」)。新しく現れた作家等とは、「マルクス主義」作家です。

2018-12-30 07:39:55
佐藤正美 @satou_masami

その歴史性というものは、「マル経」(マルクス経済学)の中で「社会構造の変遷」として ひどく単純な概念を私は大学生の頃に習ったのですが、もう疾(と)うに私は忘れています──そういう概念を聴いた時に、「文学青年」だった私は、ひどく反撥を覚えていたことを覚えています。

2018-12-30 07:40:44
佐藤正美 @satou_masami

そういう反撥を感じたのは、私が聡明だったからではなくて 、私は、当時、亀井勝一郎氏の著作を貪(むさぼ)る様に読んでいて、亀井勝一郎氏は既に「転向」した状態にあって、尊敬する亀井勝一郎氏が離れたマルクシズムを信じる事ができなかったというにすぎない。

2018-12-30 07:41:27
佐藤正美 @satou_masami

当時、私は「文学青年」として「プチブル」を蔑視していましたが、社会思想を以て文学に対する憧れを取り替えようとは更々思わなかったし、寧ろ逆に、益々、社会思想を嫌い、文学に のめり込んだ。

2018-12-30 07:42:01
佐藤正美 @satou_masami

当時、或る知人と文学論を語っていた時に、彼がロシアの作家を数人ほど述べたのですが私の識らない [ 読んだ事のない ] 作家ばかりだったので、彼が私を蔑む様な眼をした事は覚えています。それらの作家は皆いわゆる「プロレタリア文学」作家だった。

2018-12-30 07:42:30
佐藤正美 @satou_masami

プロレタリア文学に対する私の知見などその程度のものだったのですが、私は一向に気にしなかった。寧ろ、私のほうでは彼の事を「ふん、逆上(のぼ)せてやがる」と思っていたくらいです。「眠れる美女」(川端康成)を私が彼に語ったけれど、彼は私を「プチブル」だと思ったにちがいない。

2018-12-30 07:43:03
佐藤正美 @satou_masami

当時、学生運動で騒然としていた学内を友人といっしょに歩いていて、宗教団体に勧説されました。亀井勝一郎氏が「宗教」を論じていたので、「宗教」には思う事もあったので青年部の部長と面談したのですが、私の思う「宗教」とは違うものを感じて入会はしなかった。

2018-12-30 07:43:35