佐藤正美Tweet_20170916_30

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佐藤正美 @satou_masami

「数学者に、頭のいい悪いはあろう、だが仕事の上で嘘をつく数学者なんてものは一人もいないはずである。ところが文化科学になると、いや芸術学というものは、頭がよくないという事は、嘘をつくと同じ意味を持つ」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

2017-09-16 16:00:05
佐藤正美 @satou_masami

「芸術において『ロジック』など不要だ、私は私の観たままを記述する」というふうに うそぶいて天才肌を気取っている。そして、「ロジック」を知らないのが天才の特権であるとさえ思い違いしているのではないか。ただ、そういうふうに考えている作家など「二流」にすぎないでしょうね。

2017-09-16 16:04:21
佐藤正美 @satou_masami

現実的事態を或る視点において鷲掴みにしたとき、その状態は「直観(あるいは、着想)」にすぎないのであって、「直観(あるいは、着想)」に対して「構成」を与えるのが文であるかぎりにおいて、作家は、「構成」のロジックを免れる訳じゃないでしょう。

2017-09-16 16:06:42
佐藤正美 @satou_masami

いわゆる「古典的な(すなわち、規範的な)」と云われている作品は、かならず、「繊細な感受性」と「確固たるロジック」を兼掌していることを感じます。「ただカンの鈍さが理屈を言わしている」ような一流作品などないでしょう。

2017-09-16 16:09:22
佐藤正美 @satou_masami

思考力が或る程度あれば、賛否両論を作ることなど たやすいことです――なぜなら、或る言説 A に対して、補集合 ¬A を考えて、「反例(¬A)」を使って「反証」を構成すればいいだけだから。

2017-09-16 16:13:21
佐藤正美 @satou_masami

作家は、或る事態に対して或る見かたをして、無限とも言える表現法のなかから、みずからの「文体」(生活理論、制作理論)で ひとつの記述を選んで、作品を刻んだのであって、批評家の眼前にあるのは、その ひとつの「作品」です。

2017-09-16 16:16:02
佐藤正美 @satou_masami

批評という行為は、「特殊風景に対しる誠実主義」に立っておこなうしかないはずです。そして、そうであれば、批評家は、作家の個性的な「生活理論・制作理論」と対峙するしかない。

2017-09-16 16:17:48
佐藤正美 @satou_masami

遺憾なことには、文学のなかに理論を探っている批評家という専門家が作家の個性的な「生活理論・制作理論」を軽視してしまって、「科学的な」接近法をとって、寧ろ、一般読者のほうが作品を「(ひとつの物語に対する)感動」として実感しているでしょう。「感動しながら思案するは難い」。

2017-09-16 16:22:02
佐藤正美 @satou_masami

文芸のシロートである私であっても、もし、或る作品に関して批評文を綴るように依頼されたら、「さて、では、賛成の立場で綴ればいいですか、反対の立場で綴ればいいですか」と確認することくらい たやすいことです。だから、批評家失格。

2017-09-16 16:24:04
佐藤正美 @satou_masami

「独断家だ、と言われる。(略)私はただただ独断から逃れようと身を削って来た。その苛立たしさが独断の臭いをさせているのだろう。だが私には辿れない。他人にどうして辿れよう。きたならしい臭いである」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

2017-09-18 15:26:02
佐藤正美 @satou_masami

小林秀雄氏の評論文を一読したあとに感じる印象は、強烈な「文体(個性)」です。そして、この「文体(個性)」が、かれの評論を「印象批評」のように感じさせるようです。しかし、「個性的」であることが「独断的」であるということにはならないはずです。

2017-09-18 15:31:39
佐藤正美 @satou_masami

作家の「作品」を批評するためには、作家が観た視点(生活理論)で、作家が使った文体(制作理論)を追体験するしかないでしょうね。

2017-09-18 15:33:50
佐藤正美 @satou_masami

批評家は、「作品」を いったん叩き壊して――「解析」を窮(きわ)めて――、「作品」の生まれた始原的状態に立ち戻って、改めて「作品」を作家がやったのと同じように再構成しなければならない。

2017-09-18 15:36:43
佐藤正美 @satou_masami

批評家は、作家が感じた精神状態を同じように感じるほかない。批評家は、みずからの意見を排して、先ず「作品」を忠実になぞって作家の「主調低音」を聴くほかない。批評家は、「作品」の埒外に立って「作品」を ながめている訳じゃない。

2017-09-18 15:40:27
佐藤正美 @satou_masami

作家と批評家は、もとより べつべつの人物です。したがって、作家の頭脳・精神のなかで起こった現象を批評家が忠実に辿れる訳じゃない――他人はそれ(精神作用)を 判断すべき尺度を絶対に持っていないでしょう。作家の思考・精神を搦め手にして論(あげつら)う、そこには批評家の臭いがでる。

2017-09-18 15:43:52
佐藤正美 @satou_masami

「探るような眼はちっとも恐(こわ)かない、私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ。和(なご)やかな眼は恐ろしい、何を見られるかわからぬからだ」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

2017-09-23 19:15:51
佐藤正美 @satou_masami

「和やかな眼」を持った批評家として亀井勝一郎氏を私は思い起こします。亀井勝一郎氏の青春時代は、文学を志したひとの多くがそうであるように「激しい戦い」の様を呈して、まさに「探る」眼を持った状態だったと思います。かれの著作「人間教育」を読めば、その状態がわかる。

2017-09-23 19:19:10
佐藤正美 @satou_masami

「転向」を体験した亀井勝一郎氏は、みずからの精神を再生するために信仰に入りました。「大和古寺風物詩」を執筆したあとの彼の眼は「和やか」になった。そして、彼は、その眼で「聖徳太子」「愛の無常について」「親鸞」「日本人の精神史」などや、恋愛論・夫婦論・人生論を執筆しました。

2017-09-23 19:22:56
佐藤正美 @satou_masami

「和やかな眼」は、対象を一つの「総体」として普(あまね)く照らして観る。その眼は、けっして、一つの烈しい視点(向きをもった光束)ではない――そして、視点を幾つか束ねた「複眼」でもない。すなわち、事態を如是として「あるがままに凝視する」。それが亀井勝一郎氏の眼だったと思います。

2017-09-23 19:26:11
佐藤正美 @satou_masami

勿論、批評家である亀井勝一郎氏の眼は事態・事物を見透かす眼であったけれど、見えすぎたために異能を脱落(とつらく)した(あるいは、作為 [ 装う ] を嫌った)眼であるという印象を私は持っています。

2017-09-23 19:29:24
佐藤正美 @satou_masami

「和やか」な眼において、逆説的になるかもしれないけれど、「宗教を信じた」亀井勝一郎氏は「人間臭い」感――なにがしかの心理的な揺れ [ 浪漫的な感興 ]――があると思います。そして、その点こそ、私が亀井勝一郎氏を愛している理由なのです。

2017-09-23 19:32:42
佐藤正美 @satou_masami

作家が作品のなかに込めた(あるいは、作品として構成した)「心」を批評家は掴んで味わい評しなければならない――「手で重さを積って」「眼の前の煙草の箱を見るように」(小林秀雄)。それ(作家の「心」)を測る定規(公式、一般手続き、論理法則)など存在しない。

2017-09-25 11:17:24
佐藤正美 @satou_masami

作家の「心」に即して感動しながら思案するというのが「客観」ということでしょうね。感動したという事態(作用・反作用の運動)は「事実」です、そして その「事実(感動という運動)」を見据えるのが「客観」ということです。

2017-09-25 11:19:45
佐藤正美 @satou_masami

そして、一見「客観的な尺度」と錯覚されるような・その実が安物の定規(公式)などは作家の思いの熱さで延びて目盛りが狂ってしまうでしょう、きっと。感動しながら思索した・耐熱性のある頑丈なロジック、それが批評ということでしょうね。

2017-09-25 11:23:08
佐藤正美 @satou_masami

「心境小説というものがある。娑婆(しゃば)臭い心根を語って歌とする事は至難の業が。本格小説というものがある。苦しんで辿った自分の心を歌いたいという情熱をおさえる事は至難の業だ。このどっちかの至難を痛感しない人は作家でもなんでもない」(小林秀雄、「批評家失格 Ⅰ」)。

2017-09-25 11:26:48