- dousei_skhs
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【××の日、再び】 風邪を引いた。幸いインフルエンザではなかったけれど、それでも僕がここ数年引いた中で一番ひどいもの。あちこち痛いし怠いし、いいことなんてひとつもない。
2019-01-31 23:30:04なんでこうなっちゃったかなあ。天井をぼんやり見つめて考える。手洗いもうがいもマスクも食事も睡眠もなにもかも、対策という対策は完璧にしていたはずだったのに。どうも連日の疲れが溜まっていたところに、うっかりつけ込まれてしまったらしい。僕はここ数日、ベッドととても仲良くなっていた。
2019-01-31 23:31:38起きたら喉の渇きが一気にきた。あー、なんか飲みに行きたいな。でも起きるのだるいな……なんてらしくないことを考えている僕の耳に、ドアの小さな音が滑り込んできた。 「──光忠」
2019-01-31 23:35:34長谷部くんだ。内緒話でもするように声を潜めているのは、眠っていた僕を起こさないように気を遣ってくれているからだろう。 「……なーに……」 「! 起きたのか」 「ん……」 「ああ、そのままでいい。寝ていてくれ」
2019-01-31 23:37:57姿が見たくて顔を動かすと、寝ている間に強張っていた関節がぎぎっと痛んだ。お言葉に甘えて、もう一度枕に頭を預ける。 長谷部くんはベッドの傍まで来てくれた。その手には、青いラベルの清涼飲料水のペットボトルとプラスチックのコップ、額に貼る冷たいやつが箱ごと鎮座している。
2019-01-31 23:41:03両手に所在なげに持っているのが、なんだか子どもみたいで可愛いなあと思ってしまう。 「おはよう。気分は?」 「ありがと……だいぶまし」 「そっか。何よりだ」 「……どれくらい寝てた、僕」 「二時間くらい」 「そんなに……」
2019-01-31 23:41:48「そんなにでもないよ。さっき覗いたときはよく眠っていたから、声掛けなかった」 「見にきてくれたの」 「まあな。……今なにか要るか?」 「……のど乾いたな」 「ん。ほら」 ベッドに腰掛けた長谷部くんは、待ってましたと言わんばかりに、ペットボトルの中身をコップに移して差し出してくれた。
2019-01-31 23:42:41寝ていていいと言われたところだけど、飲むには起きないと。軋む身体を頑張って起こすのを、背中に回った長谷部くんの腕が支えてくれる。(コップはサイドテーブルにゴンッと置かれてちょっとこぼれた)
2019-01-31 23:46:29……ああ、しまった。いま僕すっごく汗かいてるんだけど、大丈夫かな。背中湿ってるし、首なんかもべたべたしてる。長谷部くん、気持ち悪くないかな。僕がそう思ったのと、長谷部くんの腕がぴくっと動くのはほぼ同時だった。
2019-01-31 23:48:24「……光忠、汗……」 「あ、う……やっぱかいてるよね……ごめん、僕」 「こんなにかいてたのか。気がつかなくて悪かった」 「……長谷部く」 「気持ち悪かっただろ。あとであったかいタオル持って来るから、ちゃんと拭いて着替えよう」
2019-01-31 23:52:39申し訳なさそうにそう言う長谷部くんは、僕が思っているのとは別の意味で、汗をかいた僕を心配してくれた。支える腕はそのままに、これだけかいたらよくなるかもな、と笑ってくれる。その顔を見て、なんだか涙腺がゆるみそうになった。……風邪は本当に、いろいろ弱らせてくれるから困ったものだ。
2019-01-31 23:54:48コップの中身を二杯ぶんほど飲み干すと、長谷部くんはよしよしと頷いた。 「水分は摂れるみたいでよかった。食欲はどうだ」 「……ちょっとお腹すいたかも」 「そうか。……お、お粥でも作ろうか」 「ほんとう? 頼んでもいいかな」 「よし……」
2019-01-31 23:55:53少し不安そうなのは、長谷部くんはお粥を作ったことがあまりないからだ。前に聞いたことがある。お粥なんてお米と水を煮たらそれでいいんだけれど、長谷部くんはそのシンプルさがどうも苦手らしい。不思議。
2019-01-31 23:56:53普段なら長谷部くんが苦手なものは僕が補おうと思うんだけれど、今日は自分から言ってくれたことだし、こんなときくらい甘えてもいいよね。コップを渡そうと長谷部くんを見ると、もう早速スマホでお粥のレシピを調べていた。
2019-01-31 23:58:12慣れていないだろうに、頑張って面倒をみてくれる長谷部くんに愛しさが募る。このままだと明日……は無理でも、明後日にはベッドから出られるかもしれない。治ったら何をしよう、と僕は考えた。長谷部くんには、風邪の僕とあまり接触しないように言っていたから、まずは長谷部くんにいっぱい構いたい。
2019-02-01 00:01:23「──そうだ、光忠」 「なあに」 そのとき画面を滑っていた長谷部くんの指が止まったことに、安心しきった僕は気がつかなかった。 「言いたいことがあるんだ」 「うん?」
2019-02-01 00:02:22空になったコップを持て余す。どうしようかな。とりあえず手を伸ばして、サイドボードに置いて…… 「──指輪を、外してくれないか」
2019-02-01 00:02:41「あっおい、大丈夫、」 「……なんで」 「ん?」 無意識だった。見たくないと思うのに、視線が勝手に“そこ”へピントを合わせる。ちらりと盗み見た長谷部くんの左手薬指には──指輪が、なかった。
2019-02-01 00:09:13「なんで、そんなこと……」 言うの、と続けた僕の声は、情けなく震えていた。ちゃんと理由があるはずなんだ。まずはそれを聞いてからでないと……と、頭のどこかでは思っている。それなのに、感情のブレーキが完全にばかになっているらしい僕の目からは、ぶわっと涙があふれてきた。
2019-02-01 00:11:39「えっ? みつ、」 「なんでそんなこというの、ねえ、僕なにかしたかな」 「光忠、俺は」 「大事なものだってわかってるだろ。なのに、そんな、外せって」 僕と長谷部くんの絆の証。左手薬指の指輪。お互いに何より大事にしてきたものなのに、なんでそれを、よりによっていま外せなんて言うんだろう。
2019-02-01 00:15:08……ばかなことを。指輪を外すなんて、理由がひとつしかないじゃないか。たとえ風邪でぼんやりしていなくても、僕の頭には同じことしか思い浮かばなかっただろう。つまり。長谷部くんは、僕ともう── 「長谷部くん」 「光忠」 「やだ、いやだ、ぼく」 「光忠!」
2019-02-01 00:16:11僕の止まらない言葉を堰き止めるように、長谷部くんの大きい声が部屋に響いた。ついでに僕の頭にも。ずきんと押し寄せる痛みの波が引かないうちに、俯いていたみっともない顔が、長谷部くんの両手で掴まれた。そのうえ、ぐいっ! とかなり強引に向きを変えられる。……痛い。いろんなところが、痛い。
2019-02-01 00:16:49「違う、悪かった光忠。違うんだ。外せって言ったのは」 「う……」 そこから先は聞きたくなかった。せめて風邪が治るまで待っていてくれたらいいのに。そうしたら、──いや、どうしたって、僕はもう長谷部くんのことを手放すなんて絶対に、
2019-02-01 00:17:52「クリーニング!」 「…………は……?」 「ゆ、指輪」 「は……?」 「いや、だから……指輪をクリーニングに出そうと思ってるん、だが」
2019-02-01 00:20:57