大阪夏の陣、豊臣氏の滅亡

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真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

大阪城玉造口。大阪城に逃げてきた大野治房は燃える大阪城天守閣を見て城から玉造門を抜けて逃げた。その後の行方は不明。 pic.twitter.com/lspozktJJK

2019-02-03 23:12:31
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大坂城京橋口。長曽我部盛親は八尾から撤退した後、大坂城京橋口の守備をしていたが、豊臣軍の天王寺の敗北を知ると「我ら運さえよければ大坂たるよ」と言い残し、再起を図るため大坂城から逃亡した。 pic.twitter.com/ZNYy0czqcJ

2019-06-06 12:34:06
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大阪浪人五人衆のうち真田信繁と後藤基次の二人は討死、明石全登と長曽我部盛親の二人は逃亡した。大阪城に残る五人衆は毛利勝永ただ一人となった。 pic.twitter.com/EpWBnUj9uo

2019-02-03 22:26:01
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大阪城桜門。1615年5月8日早朝、大量の徳川軍が大阪城内で抵抗する豊臣軍から逃げてきて桜門に殺到した為、桜門付近は混乱した。 pic.twitter.com/y9rxwtXTas

2019-02-03 23:24:10
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大阪城千貫櫓。本願寺時代に「千貫文を出しても奪いたい櫓」と攻め手に言わせた逸話を持つ櫓。豊臣時代にもこの櫓は存在し、桜門を突破しようとした徳川軍を妨害したと思われる。 pic.twitter.com/sMgEnLXSCt

2019-02-03 23:45:26
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道頓堀。安井道頓は豊臣氏に味方し大阪城内で討死した。安井道頓の手掛けていた運河事業は徳川時代に引き継がれ、その運河は「道頓堀」と名付けられた。 pic.twitter.com/gsSzXpOLcj

2019-02-03 23:34:07
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大阪城山里丸。山里丸には秀吉の茶室が存在していた。豊臣秀頼らは大阪城天守閣焼失後、本丸の裏側に存在するこの曲輪に避難していた。 pic.twitter.com/vIYMqqjInp

2019-02-05 23:46:04
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極楽橋。大阪城山里丸に繋がる橋である。橋の向こうの山里丸は阿弥陀仏のいる苦痛のない安楽の世界「極楽浄土」である。 pic.twitter.com/BDcH1adnFM

2019-02-06 10:10:14
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大阪城内の浪人逹は略奪を始めていた。大野治長は徳川秀忠の娘、千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を家康にしたところ、返答の代わりに銃弾が返ってきた。 pic.twitter.com/ciEFfiNYLF

2019-02-05 23:44:10
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豊臣秀頼・淀殿ら自刃之地。1615年5月8日昼頃、豊臣秀頼、茶々(淀殿)は大阪城山里丸で自刃した。 pic.twitter.com/d3dlHhkmMj

2019-02-04 00:29:51
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豊臣秀頼の介錯は毛利勝永が行った。毛利勝永は主君の介錯を終えると自刃した。息子の毛利勝家、弟の山内勘解由吉近も山里丸で共に自刃した。 pic.twitter.com/O6FAKu11oV

2019-02-04 06:50:37
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毛利勝永夫妻墓。大坂の夏の陣で大坂城山里丸で自刃した豊臣方の武将、毛利勝永と勝永の妻の墓。庶民人気の高い真田信繁と異なり毛利勝永の活躍が語られることは少ない。 pic.twitter.com/tTeI0EOYNY

2019-06-07 22:12:33
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大蔵卿局、大野治長らも自刃した。大野治長には豊臣秀頼の真の父という悪い噂があったが、最後の自刃に関しては、「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なり」と好評価を受けた。 pic.twitter.com/UeDaDiK0eG

2019-02-04 06:57:26
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真田信繁から豊臣秀頼の最後を見届けるよう命じられていた息子の真田大助は「我は真田信繁の倅なり」と叫び加藤弥平太と共に自刃した。 pic.twitter.com/ZBYh87CpJH

2019-02-04 12:24:50
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淀君並殉死者三十二名忠霊塔。主君豊臣秀頼の自刃に淀君以下三十二名が山里丸で殉死した。これは殉死者三十二名を供養する為の供養塔である。 pic.twitter.com/A7AEIneI7g

2019-02-04 12:37:54
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茶臼山。徳川家康は大阪城が落城した日、真田信繁が陣を置いていた茶臼山に登り、頂点に旗を立てて麓に武将を集めて勝鬨を上げた。 pic.twitter.com/FMKgXOCDd3

2019-02-04 17:45:18
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御勝山。徳川秀忠はこの山で大阪夏の陣の戦勝祝いを行った。元々は「岡山」という名前だったが徳川秀忠が戦勝祝いを行った由縁から「御勝山」と呼ばれるようになった。 pic.twitter.com/4FEkpDKhqC

2019-03-23 19:36:55
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徳川秀忠の娘の千姫は祖父・徳川家康の命で坂崎直盛によって落城する大坂城から救出された。その後、千姫は姫路城主の本多忠刻と再婚した。元夫の豊臣秀頼とは政略結婚ではあったが夫婦仲は良かったという。 pic.twitter.com/bPEFZBA72Z

2019-02-05 23:31:51
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豊臣秀頼の八才の息子の豊臣国松は大阪城から脱出したが、後に徳川氏に捕まり同じく捕らえられた長曽我部盛親と共に処刑され六条河原で晒し首になった。 pic.twitter.com/mUqZZm5oUt

2019-02-04 21:33:47
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長曽我部盛親公慰霊之碑。大坂城を逃亡した後、徳川方に捕らえられ六条河原で処刑された長曽我部盛親の慰霊碑。 pic.twitter.com/nwaH8zivbJ

2019-06-06 12:46:51
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捕らえられた長曽我部盛親は徳川方の武将に対して「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い命乞いをした。 pic.twitter.com/BMl4LAZRQk

2019-06-06 15:59:45
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徳川方の武将に自害しなかった理由を聞かれると、長曽我部盛親は「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」と答えたという。 pic.twitter.com/jlsl6SQeWX

2019-06-06 16:04:00
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長曽我部盛親の子供逹も共に六条河原で処刑された。これにより長曽我部氏は滅亡し、長曽我部盛親の土佐再興の夢は処刑台の露と消えた。 pic.twitter.com/Zj7s1CuJLp

2019-02-06 12:45:39
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伝長曽我部一族之墓。大坂夏の陣で滅亡した長曽我部一族の墓所。長宗我部一族は飛鳥時代に活躍した秦河勝の末裔であったという。 pic.twitter.com/mp8thk3DGS

2019-06-06 22:17:21
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天下人豊臣秀吉の直系は徳川氏によって滅亡した。豊臣氏が逆賊として大阪城で滅亡したことによってその影響は故人の秀吉にまで及んだ。 pic.twitter.com/iUbWJcxt3Y

2019-02-04 21:48:39
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