源頼茂の話。

源頼政の孫の在京御家人・源頼茂。 承久の乱前夜に突如将軍になろうとして挙兵し討たれたという謎の最期が気になったので、その生涯を調べる。
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銅折葉 @domioriha

源頼政の孫にあたる源頼茂について調べ始めた。

2019-02-24 10:51:42
銅折葉 @domioriha

源頼茂は源頼政の子である頼兼の子になる。頼政の息子(養子も含む)や孫はその多くが以仁王の挙兵に参加しているのだが、頼兼の当時の動向は明らかではなく、1183年の木曽義仲の入京に際して大内守護を命じられ、窃盗犯や放火犯などを捕らえる活躍をし、鎌倉幕府以降も御家人として仕えている。

2019-02-24 10:56:55
銅折葉 @domioriha

頼茂はその父と同様に大内守護の任に付くとともに、在京御家人としてたびたび鎌倉に下って双方の仲介などをしていた。吾妻鏡にも名前が何度も登場し、一時期は大江広元や大内惟信と共に政所別当を勤めている。

2019-02-24 11:05:08
銅折葉 @domioriha

吾妻鏡によれば1213年 (建暦3年)の8月3日に明月記の引用という形で、清水寺から長楽寺に立て籠もった山僧を西面武士達が動員され、その中で近江守頼茂が伏兵を持って険しい嶺東を遮り、山上の者を生け捕ったという記事がある。8月14日には飛脚の報せでこれを補強する記事もある。

2019-02-24 11:10:52
銅折葉 @domioriha

吾妻鏡に一番最初に頼茂の名前が出てくるのは、1213年 (建暦3年)5月3日。あの和田合戦の最中である。鎌倉市街を巻き込んだ反乱の中で、「名越は近江の守頼茂」が守ったという一文がある。

2019-02-24 11:19:58
銅折葉 @domioriha

頼茂の守った場所は和田合戦の主戦場ではなく、おそらく大きな戦闘は起きていないのだが、名越は和田一族の本拠にあたる三浦へ通じる三浦道(現在あんまりどのルートなのかはっきりしてないらしい)の入り口あたりで、逃走や支援経路を断つための重要な守りではなかっただろうか。

2019-02-24 11:21:04
銅折葉 @domioriha

和田合戦に参加した5月から、わずか3ヶ月後の8月には先の長楽寺の反乱を抑える働きをしていることから、頼茂は頻繁に京都と鎌倉を移動し、それぞれで活躍をしていたことが窺える。いくらなんでも和田合戦の事後処理が一日二日で済んだとも思えないので、本当にとんぼ返りだったのではなかろうか。

2019-02-24 11:23:58
銅折葉 @domioriha

また、頼茂の名前は北条政子の大倉大慈寺供養(1214年 (建保2年)7月27日)、実朝の鶴岡八幡参拝(1218年 (建保6年)6月27日)や「右馬権の頭頼茂朝臣」と登場している。このときは殿上人の区分で順番はだいぶ上の方である。

2019-02-24 11:24:42
銅折葉 @domioriha

特に大倉大慈寺供養のほう、長楽寺の反乱鎮圧の翌年なので、最低でも一年とか半年とかに1度は行ったり来たりしてたのではないかと推測される。めっちゃ大変そう。

2019-02-24 11:25:58
銅折葉 @domioriha

そして1219年。三代将軍の源実朝が公暁に暗殺されたその場にも頼茂は居合わせていた。1月27日の鶴岡八幡宮参拝の記事に、同道した行列の中に「右馬権の頭頼茂朝臣」の名前がある。実朝と共に殺された源仲章の名も同じく並んでいる。

2019-02-24 11:30:24
銅折葉 @domioriha

源仲章は後鳥羽上皇の院近臣であり、同時に鎌倉御家人でもあり、スパイあるいは二重スパイのような立場ではなかったかと推測されることが多い。学識を買われて文章博士とされ、実朝の教育を行った。頼茂同様に政所別当でもあり、その立場から実朝同様暗殺対象だったのではともされている。

2019-02-24 11:33:17
銅折葉 @domioriha

この実朝暗殺事件に先立って、頼茂の登場する記事がもう一つある。暗殺の2日前、頼茂が鶴岡宮に参拝したところ、童子が杖を振って鳩を打ち殺す夢を見、不思議に思っていると朝、家の前に鳩の死骸があったというもの。これを凶兆と報告した頼茂によって、陰陽師が占いをして不快を示したという。

2019-02-24 11:38:21
銅折葉 @domioriha

吾妻鏡では鳩は凶兆の証だったり出来事の報せとして何度も登場しており、実際にあったかどうかはさておき、実朝暗殺事件のなんらかの意味づけとして挿入された可能性が高い。 CiNii 論文 -  『吾妻鏡』における八幡神使としての鳩への意味付け ci.nii.ac.jp/naid/120005838… #CiNii

2019-02-24 11:39:53
銅折葉 @domioriha

この凶兆を見て報告する役割にされたのが鵺退治の頼政の孫(史実的にも頼政の郎党が宮中に棲食う霊狐を討ったという記録がある)である頼茂であったというのはなかなか興味深い。辟邪の武・摂津源氏の末はいまだ大内守護としてそうした立場にあったのだろうか。

2019-02-24 11:42:14
銅折葉 @domioriha

その実朝暗殺から半年も間を置かない1219年 (建保7年4月12日改元承久元年)7月13日。 源頼茂は京都で謀反を起こした。自ら将軍の地位を欲してのことされている。大内守護の立場を利用して内裏に立て籠もるも、たちまち後鳥羽上皇の命を受けた官軍に包囲され、仁寿殿に火を放って自害した。

2019-02-24 11:46:46
銅折葉 @domioriha

ここは愚管抄、北條九代記、保暦間記、百錬抄などを引いているが、宜陽殿・校書殿などにも被害が及び、仙洞代々の宝物が焼けたと記されている。7月25日には京都の使者が詳報を報告しており、仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿、及び大甞會御即位の蔵人方往代の御装束・霊物等が灰となったとのこと。

2019-02-24 11:52:50
銅折葉 @domioriha

この謀反に参加した頼茂並びに「伴類右近将監籐の近仲」「右兵衛の尉源の貯」「前の刑部の丞平の頼国」等、とのこと。藤原近仲、源貯、平頼国らの名前はちょっと調べる限りでは出てこない。2番目の源貯はネーミング規則的に源綱や源省、源競といった渡辺氏の関係ではないだろうか。

2019-02-24 12:00:15
銅折葉 @domioriha

尊卑分脈によれば頼茂の享年は41歳。逆算すると生年が1179年頃であり、以仁王の決起の直前になる。頼兼は京都の大内守護であり京都に居たと思われるので、頼政はぎりぎりで頼茂の顔を見ていただろうか。

2019-02-24 12:02:45
銅折葉 @domioriha

頼茂のこの突然の謀反と討伐は、それまでの彼の活躍を考えるとかなり無謀なものであり、どうして起きたのかを考え始めると悩ましい事件でもある。実朝の死後、後鳥羽上皇が対鎌倉に対して態度を変え始めていた時期であり、1221年に起きた承久の乱の先触れという説がある。

2019-02-24 12:05:21
銅折葉 @domioriha

後鳥羽上皇が対鎌倉勢力として密かに集めていた中に頼茂がおり、鎌倉への忠義からこれを断ったため攻め滅ぼされ、「将軍の地位を欲して決起した」という汚名を着せられたのではないかという説や、上皇が秘密裏に進めていた鎌倉調伏の祈祷を知ってしまったため消されたという話もある。

2019-02-24 12:07:35
銅折葉 @domioriha

また、頼茂が実際に将軍になろうとしたという説もある。源頼政の孫であり摂津源氏の後継である頼茂は、実朝亡きあとの源氏の嫡流であったことは間違いなく、鎌倉と上皇の間で進められていた宮将軍構想に対して、自分こそが将軍に相応しいと考えたというのは、一応はありえない話ではないようにも思う。

2019-02-24 12:09:40
銅折葉 @domioriha

だとしても本当に将軍になりたいんなら、なんでわざわざ京都で謀反を起こしてしまったのかについては疑問は残る。せめて鎌倉に下ってからのほうがよほど現実的ではなかっただろうか。 鎌倉は既に御家人達の体制が固まっていたし、いきなり在京御家人の頼茂が割って入るのは難しかったとも思うが。

2019-02-24 12:11:40
銅折葉 @domioriha

ともあれ、摂津源氏の嫡流はこうして突然の謀反と突然の死を迎えた。 彼の娘が甲斐源氏の8代目である武田時綱の母であるという話があるらしく、それは今日知った。この頃の甲斐源氏の動向もなんかいろいろ分かりづらく、どういう経緯でこうなったのかは明瞭ではない。

2019-02-24 12:14:59
銅折葉 @domioriha

大内守護の頼茂が、なにかを宮中で見てしまい口封じのために討たれたというのは、その後の承久の乱という大乱における先触れとしていろいろと想像を巡らせることができる。

2019-02-24 12:20:19
銅折葉 @domioriha

ざっくりと終わり。新しい資料がどっかにあれば良いのだが今のところは見当たらない。ひとつだけ頼茂の歌とされてるものがあるんだけどたぶん名前の書き間違いの可能性が高いらしい。 承久の乱といえば、伊予の河野通信についても思うところがあって色々と気にはなるんだなあ。

2019-02-24 12:22:03