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和中 光次(わなか みつじ) @111g0
大森捕虜収容所の図面と、グーグルマップの平和島競艇場付近の航空写真を重ね合わせてみた。 これでバードこと渡邊軍曹の事務室や、クリスマスショー「シンデレラ」の劇場にもなった風呂場、その他主要構造物のおよその位置が特定できた。近々現地に行って確認してこよう。 pic.twitter.com/zZMmafcST7
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上の写真に貼り付けた大森捕虜収容所の配置図です。 詳しい解説は『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人―知られざる日本軍捕虜収容所の真実』にあるので、そちらをごらんください。 amzn.to/2AanWtj pic.twitter.com/cH658MMF9w
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なお右上の二つの○は肥溜めのあった場所で、捕虜たちが解放された1945年8月28日、上陸した海兵隊員の一人が、群がっていた捕虜たちが制止するのも聞かず、どんどん前に進んで肥溜めに落っこちているw
香織ちゃん◢ ⁴⁶乃木坂 @DDnagaoka
戦後の大森収容所は、いま、東京大田区の平和島競艇場になっている。 ift.tt/2tXtWSM pic.twitter.com/W4acxoQFqb
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大森捕虜収容所の全体が見渡せる写真。収容所の正門南側に、捕虜士官たちが耕作した畑があり、その先が聴音機分遣隊の占有地になっていた。 pic.twitter.com/WIPs4g0SAF
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大森捕虜収容所敷地内の北東側に豚小屋があった。『米軍が見た東京1945秋』の著者の佐藤洋一氏に、同書掲載写真の豚小屋の部分を拡大していただきました。 pic.twitter.com/7CiD52eYXA
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大森捕虜収容所の特殊捕虜兵舎に、海兵隊撃墜王パピー・ボイントン少佐が収容されていた。ボイントン少佐が収容されていることを米軍に知らせるメッセージが、二つの便所の屋根を使って描かれている。 「PAPPY BOYINGTON HERE!」 pic.twitter.com/he3eCoE3KP
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今日は大森捕虜収容所があった平和島に行ってきた。ああ、ここで悲喜こもごもの出来事があったんだ、と思いながら、収容所内の各施設に該当するところを歩いてきた。競艇場前の横断歩道上から撮影。立体視しにくいですが、赤線のところに正門側の塀があった。緑枠は捕虜士官が耕していた畑があった所。 pic.twitter.com/OyxEFVoaGN
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大森捕虜収容所の正門側塀の裏側の集合場にあたる場所。毎朝ここで捕虜たちが作業出発前に、各作業場ごとにわかれて整列していた。 pic.twitter.com/l7VjM9HSVC
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当時の作業場の写真。先程のカラー写真とは撮影方向が逆。右に正門側の塀の一部が写っている。右の後頭部は八藤雄一主計軍曹。左端に白服の渡邊伍長。ルイス・ブッシュ中尉によると、渡邊がこの白い「ジャケツを着こんでやって来る時は必ず乱暴を働くので、我々は”屠殺人のジャケツ”と呼んでいた」 pic.twitter.com/RJiNK08Bn8
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緑色の枠が、大森捕虜収容所の風呂場があったところ。そこでは年に数回、捕虜たちがショーを開催していた。大森には捕虜の従軍神父がいて、日曜日には風呂場で礼拝が行われていた。入浴は毎週水土の週2回だったが、外で作業する捕虜は、作業後に作業場の入浴施設を利用していた。 pic.twitter.com/k6g9hu2o2m
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1944年のクリスマスに大森収容所の風呂場で行われた劇、シンデレラの一幕。 pic.twitter.com/54vqRHC3NQ
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大森捕虜収容所の風呂で入浴する大臣経験者たち。大森収容所はのちに将軍や大臣経験者の戦犯が収容され、捕虜が使用した毛布に乏しい食事、それに南京虫の襲撃など、復讐の場ともなった。左から岩村通世司法大臣、鈴木貞一企画院総裁?、寺島健逓信大臣兼鉄道大臣。 pic.twitter.com/E64mH6aXXT
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シンデレラなどの劇は、この浴槽の上に板を敷いて、舞台としていた。
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平和島ボートレース場観客席の南側、赤枠のあたりに、大森捕虜収容所の運河側の塀があった。 pic.twitter.com/7YQh0WZLBU
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大森捕虜収容所の運河側。桟橋が突き出た水面で、現在、平和島ボートレースが行われている。 pic.twitter.com/OFrph6OICB
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大森補諸収容所の西の運河側にあった桟橋と肥だめの位置。裏門があったのもこのあたり。 pic.twitter.com/UQ5c9bw1Vh
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大森捕虜収容所の正門はこの赤いラインのあたり。その先に、母を背負う笹川良一(日本船舶振興会創設者)の像がある。笹川もA級戦犯容疑者として巣鴨に入獄したが、米国が方針転換して反共に利用できる笹川を釈放。笹川は巣鴨で見たライフ誌のモーターボートの写真を見てボートレースに関心を持った。 pic.twitter.com/wB7Bh5FXcH
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労務と医療関係の建物があった場所。労務担当渡邊伍長の事務室の窓の正面が、二列に並ぶ捕虜兵舎間の通りにあたり、捕虜たちがよく見えていた。捕虜たちからは渡邊伍長が見えないが、念のため必ず敬礼していた。敬礼しないと罰を受けるからだ。 pic.twitter.com/hGoeezDGXN
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赤枠辺りに塀で囲まれた特殊捕虜兵舎があった。B29搭乗員や正規の捕虜と接触させたくない捕虜が収容され、懲罰的な扱いを受けている。終戦後、酔った所員数名が軍刀をもってこの兵舎に押し入ろうとしたが、他の所員に取り押さえられた。所長はそのときの不始末を最後の捕虜への訓示で詫びている。 pic.twitter.com/TRZgTPYwON
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緑枠のところに大森捕虜収容所の炊事場があった。炊事の捕虜側担当士官はチャールズ・クラーク中尉(米海軍飛行艇操縦士)で、その下に主に香港で捕虜になった英軍兵士たちがつき、日本人と共同で約600名分の調理にあたっていた。日本側の担当は福田軍曹で、他に4人の調理員がいた。 pic.twitter.com/2rhLUY0iLu
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炊事場の捕虜調理員たち。東京俘虜収容所管轄の収容所だが大森かどうかは不明。胸の捕虜番号が48、221と若いので英国兵捕虜。皿にには魚のフライらしきものが見える。帽子と同じマークが後ろのドンブリにもある。漢字のようだが大久? pic.twitter.com/BuS01TT4DH
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医務室。これも東京俘虜収容所管轄の収容所だけれど、場所不明。この日はクリスマスで赤十字からの慰問箱をもらっている。SPAM(肉の缶詰)、Domino Cane Suger Dots(砂糖)、IRIS SEEDLESS RAISINS(干しぶどう)、Chesterfield(煙草)などの商品が見える。 pic.twitter.com/kwNPlMeM47
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平和島競艇場、観客席の南側。俘虜管理本部棟の所長室と応接室があった場所。 プロパガンダ放送のために連れてこられた捕虜たちは応接室で面接を受けた。 面接したのは十五代将軍徳川慶喜の孫で日の丸アワー放送担当の池田徳眞。応接室の向こうに会議室、経理課、庶務課の部屋がある。 pic.twitter.com/Hex1OX7j6H
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(大森捕虜収容所)俘虜管理棟本部の正門側(先程の画像の緑の枠の右側)での収容所分所派遣所長会議の記念撮影。人物は全員特定されている。左の窓が経理課にあたる。前列左から6番目が本所所長の鈴木薫二大佐。後列左端が「私は貝になりたい」の原作者加藤哲太郎少尉。 pic.twitter.com/I5RGxFJvMp
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