物語にはよく「選ばれた子供」が登場する。でもこれはその弟の話。

イタロ・カルヴィーノの「木のぼり男爵」は面白いよ! https://www.hakusuisha.co.jp/book/b335551.html
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帽子男 @alkali_acid

物語にはよく「選ばれた子供」が登場する。 鳥や獣と言葉を通じ合わせたり、ほかの人間には見えない何かを見たり、予言が運命を告げたり、きわだって美しかったり、音楽や絵画あるいは武芸や学問にたぐいまれな天稟を備えていたり。

2019-03-30 17:26:14
帽子男 @alkali_acid

決まって周囲は困惑し、理解に苦しむ。 子供も孤独をかこつ。だが、いつか波乱万丈の冒険が広い世界へと連れ出すと、本当の友達や恋人や、仇敵を得る。 結末が悲劇で終わるかめでたしめでたしで終わるかはともかく。 そういうものだ。

2019-03-30 17:28:21
帽子男 @alkali_acid

選ばれた子供。 だがツチトはそうではない。 選ばれた子供の、弟だった。

2019-03-30 17:29:53
帽子男 @alkali_acid

兄のアマヤは、新月の夜のような漆黒の髪と瞳、暗い黄みがかったなめらかな肌をしていて、さすらいの民の血筋をうかがわせる、おとめともまがうような容貌をしていた。

2019-03-30 17:32:01
帽子男 @alkali_acid

良家の生まれの父が、門づけを求めて訪れた旅の占い師の女に恋をし、駆け落ちのすえに為したという。 いつも夢幻にひたっているような表情をして、不意に現実(うつつ)に戻って誰かを見つめると、相手はきまってどぎまぎした。

2019-03-30 17:34:33
帽子男 @alkali_acid

父は都で短く燃えるような日々を過ごしたが、おきまりの不幸が追いついてきた。愛する伴侶を産褥の床で亡くして、抜け殻のようになり、実家の懇請を受けて戻ったが、鬱々として楽しまなかった。 ただ忘れ形見のアマヤ、母譲りのかわいらしい顔をした赤子だけが慰めになった。

2019-03-30 17:39:19
帽子男 @alkali_acid

選ばれた子供、アマヤはすくすくと育った。使用人ははじめはれものにさわるように接したが、少年のやわらかであまやかな声音には抗いがたく、次第に打ち解けて王子の如く扱うようになった。

2019-03-30 17:41:34
帽子男 @alkali_acid

父はアマヤにすべてを与えた。とびきりの仔馬や猟犬や、そのほかもろもろを。塩作りと商いをなりわいとする一門で、暮らし向きは豊かだった。

2019-03-30 17:43:21
帽子男 @alkali_acid

だが親だけでなく、召使もまたよく尽くした。おもちゃでいっぱいの部屋をぴかぴかに掃除し、服や靴を念入りに手入れし、木登りや川遊びで汚れて帰ってくる小さな天使の世話をせっせと焼いた。

2019-03-30 17:45:52
帽子男 @alkali_acid

満ち足りたはずの日々の中で、けれどアマヤはどこか寂しげだった。 「ねえ、じいや。あそこで笑っている小さな鳥の羽をした猫は見える?」 「いいえ若様」 「…それじゃあ、朝、庭を散歩していた青い花をからだじゅうにいっぱいつけたおじいさんは?」 「いいえ若様…そのようなことを口にされては」

2019-03-30 17:47:50
帽子男 @alkali_acid

子供は空想をする。若様は繊細で優しく澄んだ魂を宿しているから、周囲のすべてに感じやすく、そうした考えを抱くのだと、家庭教師をつとめた修道士はあたりに説いて聞かせた。 なんといってもアマヤは勉強がよくできた。古典も天文も物理も計数も。 いつもぼんやりと授業を聞いていないようで。

2019-03-30 17:50:02
帽子男 @alkali_acid

問題を解かせて誤った試しがないのだ。 「若様。なめた口を利くやつには一発おみまいしてやればいい」 武術指南役はそう助言した。 「?なんのこと」 「まあ若様に面と向かって何か言えるやつもいないか」

2019-03-30 17:52:18
帽子男 @alkali_acid

アマヤは剣術も弓術も、組打ちも、馬術も、水練も、操船も、何をさせてもたちまち極意を掴んでしまった。しかし狩りにも戦いにも興味は示さなかった。 「王様の軍隊に入れば、立派な将軍になれるんだがな…お父上がお許しになるまいが」 「僕、軍楽はあまり好きじゃないな」

2019-03-30 17:55:55
帽子男 @alkali_acid

稽古を終えたあとで、息も乱さず、最近練習を始めた竪琴をとって爪弾きながら、少年は気のない返事をした。 音楽においても、絵画においても、アマヤは教師を瞠目させるような才を示した。奏でる調べや、描き出す線はただ上手だというだけではなく、不思議な魅力があった。

2019-03-30 17:58:11
帽子男 @alkali_acid

アマヤの父は一生、妻の死から立ち直れなかったが、しかし我が子の成長に慰められ、屋敷に小鳥も聴き入るような歌声が響くと、微笑む日もあった。 「息子よ。お前に残せるだけのものを残そう。財産も、召使も…とびきりの花嫁も…何かほかに欲しいものはあるか」 「…あのね父上…僕…」

2019-03-30 18:01:13
帽子男 @alkali_acid

「財産も、召使も、欲しくないんだ」 息子は困ったようにそう告げて、父を戸惑わせた。 「ここは…僕の居場所じゃない気がする」 「だがお前は跡継ぎなのだ。一門のすべてを受け取る権利がある」 「でも、誰も僕と同じものを見たり、聞いたり、話したりしてくれないんだ」

2019-03-30 18:03:06
帽子男 @alkali_acid

「ああ…」 失った伴侶にますます似てくる我が子に、親は瞼を閉ざす。 「もしかしたら、どこか違う場所に…」 「そんなものはありはしない」 「でも…父上」 「お前は私を支えてくれ…いやそうしなくてもいい…ただここにいるだけで」 「父上もお屋敷を出たんでしょう?」

2019-03-30 18:04:56
帽子男 @alkali_acid

「誰がそんなことを」 「…ごめんなさい」 「…そうだな…そう…解った…お前を縛りつけることなどできるはずもない。あの人の血をひくのだから」 アマヤはその日、父から母の占い札を受け取った。不思議な力がこもっている品だ。 「私がお前に与えてやれる贈り物は…あと一つ」

2019-03-30 18:06:28
帽子男 @alkali_acid

「自由だ」 かくしてツチトはやってきた。 選ばれた子供の弟として。 さる修道院で下働きとして働いていたみなしごだ。 系図をたどってみるとアマヤの遠縁にあたる。 そういった子供ならごまんといたが、健やかでみためがよくもわるくもなく頭のできもよくもわるくもなく、とにかく無難そうだった。

2019-03-30 18:08:43
帽子男 @alkali_acid

「塩作りと商いをしている大家の旦那様だ。お前の遠い親戚にあたるそうで」 「はあ」 「お前を引き取りたいという」 「はあ」 「修道院に多大な寄付をして下さるそうでな」 「あー…えー…」 「お前がいつも言っていたような、芋やなんかをほかの連中にたらふく食わせてやれる」

2019-03-30 18:11:01
帽子男 @alkali_acid

ツチトはしばらく考えてからうなずいた。 「じゃあ」 「よしよし。お前のかわりの料理番は誰がよい」 「ええと…」 年長の二人の名前をあげ、引き継ぎを済ませると、子供は迎えの馬車に乗って海辺の屋敷に向かった。

2019-03-30 18:12:33
帽子男 @alkali_acid

「ツチトというのだな。ふむ」 養父はさして関心もなさそうに養子を引見した。 「よろしくおねがいします」 「お前を私の跡継ぎにするつもりだ」 「えっ」 「なんでも無難にこなすと聞いた。ここでもそうしてもらいたい」

2019-03-30 18:14:20
帽子男 @alkali_acid

ツチトの外見についてことさら述べるまでもない。 どこにでもいる、地味な少年だ。 初めて兄に出会ったとき、向こうは華やいだ笑みを見せたが、弟は修道院風の辞儀をしただけだった。 およそそっけない反応などに出会った覚えのないアマヤはだいぶびっくりしたようだった。

2019-03-30 18:16:01
帽子男 @alkali_acid

「君がツチトだね。僕はアマヤ。これから兄弟になるんだ」 「はあ」 「よろしく。ねえ一緒に遊ぼうよ」 「はあ…ええと…」 隣にいた執事は咳ばらいをした。 「ツチト様は遅れている学問をせねばなりません」 「そう…じゃあ次ね!」

2019-03-30 18:17:35
帽子男 @alkali_acid

ツチトについて言えば、召使は誰も愛さなかった。本来の跡継ぎであるアマヤを押しのけたよけいものと考えたのだ。敬愛する当主の、長男に自由を与えたいという意向であっても、いや意向であるからこそ、余計にうとましかった。

2019-03-30 18:18:47
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