過去に恋人を寝取られた名家の男が、十も年が離れた許婚を孕ませて束縛しようとする話

名家じゃなかったな。まあいいか。
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帽子男 @alkali_acid

老翁は記憶をたどる。 「本を読むのも、実験に加わるのも許されておらなんだ。吾輩はもともと、擂鉢だの擂棒だの、あれこれの小物を納める出入りの商人の丁稚でな。器用なのを買われて下働きになったが、まあ弟子どもからはいじめられた」 「興味深いお話ですが、許婚の件は?」

2019-05-03 21:36:55
帽子男 @alkali_acid

ピケが半畳を入れると、ヘルムートが苦る。 「解っておる。ええと、吾輩はそれでもこっそりと真の学問の奥義を盗み見ては、知識を蓄えておった。古典語も古代語も、新月の言葉も龍子の言葉も独学で身に着けたのよ」 「大変なご苦労を。で、許婚の件は」 「せかすな。アンと会ったのは…」

2019-05-03 21:39:12
帽子男 @alkali_acid

ぽんと拳で手を叩いて錬金術師はうなずく。 「仕えておった術師が、実験のため新鮮な卵を欲しがってな。近在で最も大きな鶏舎を持つ豪農の家に吾輩が出かけていった」 「あまり詩の薫りはしませんな」 「薔薇冠の詩人の作品のようにか?酒だけでなく芸能にまでなじむとは。年々人間の堕落に染まるな」

2019-05-03 21:42:16
帽子男 @alkali_acid

「自分はどちらかと言えば白鳥の羽の作家の書の方が好みですが」 「ふん!気取りおって」 「続きを」 「うむ。アンはまだよちよち歩きであったが、吾輩が手巾の色を次々に変えてみせると目を丸くしてな。驚異を感受する精神を備えておった」 「子供だましの手品で感心させたと」 「そうともいう」

2019-05-03 21:44:25
帽子男 @alkali_acid

主従が喋る間に豚車はどんどん速度を上げてゆく。 戦で荒れ果てた交易路を汚い鳴き声を上げて突進する二頭のツチブタと不気味な箱型の乗り物。すれちがう行商や巡礼、追剥や飛脚、遍歴の騎士を恐慌に陥れる。 手綱をとる助手は、時々瓶に補充しておいた苦蓬漬の火酒をあおって、博士に水を向ける。

2019-05-03 21:48:15
帽子男 @alkali_acid

「それからも卵を買い付けにゆく用事があったので、しだいに仲良くなり、ついには吾輩がひとりだちの錬金術師になった暁には嫁にもらうという約束を交わした」 「ヴァンシームのご当主は承諾を?」 「うむ。吾輩は術師の筆頭の弟子と売り込んだのでな。盗んだ薬で鶏舎に沸いた変種を始末してやったし」

2019-05-03 21:51:18
帽子男 @alkali_acid

「ほう?」 「まれに雄鶏が卵を産むことがあってな。たいていは孵らんが糞が饐える熱で温まると、おかしな生きものが出てくる。何というのかな蛇のような…いや鶏のような…睨んだものが石のように強張って死ぬ」 「興味深いですな」 「ちょうど吾輩の師匠は水銀を研究していてな」 「おお毒ですな」

2019-05-03 21:53:15
帽子男 @alkali_acid

助手が相槌を打ってまた酒精をすするのへ、博士はじろりとにらむ。 「我が助手ともあろうものが情けないぞ。水銀といえば賢者の石の材料ではないか」 「賢者の石。あれは妄想の類かと」 「まあな。作り上げたものはおらん。だが術師は本気であった。吾輩はもうちと別の使い道に関心を抱いており」

2019-05-03 21:54:47
帽子男 @alkali_acid

「やはり毒では」 「違うというに。よいか明礬と硝石を混ぜて蒸留すると得られる硝酸があり、そこに水銀と、お前の飲んでいるほれ酒精を調合すると、実に素晴らしい効能が得られる」 「もったいない。酒精はこのままでよいですよ。せいぜい香草を漬けるぐらいで」

2019-05-03 21:58:43
帽子男 @alkali_acid

錬金術師は手をすりあわせる。 「雷だ。吾輩は水銀の玄妙な働きでもって、雷を地上に下ろすのに成功したのだ」 「雷なら博士が下ろさなくてもしょっちゅうそのへんの木に落ちているではありませんか。先日も屋敷で避雷針を立てて」 「あれも面白かったが、よいか。水銀の雷は格別だった」

2019-05-03 22:00:36
帽子男 @alkali_acid

翁はうっとりと過去の数少ない成功を反芻する。 「家僕を二人も死なせた蛇鶏だかなんだかは、吾輩の雷を受けて小屋ごと吹き飛んでな。残念ながら腑分けをするだけのむくろが手に入らなかったが…しかし、ヴァンシームの当主は吾輩を大いに認め、一人前の錬金術師になった暁に必ずやアンを嫁にすると」

2019-05-03 22:02:22
帽子男 @alkali_acid

「たかが鶏の変種を処分するのに小屋を吹き飛ばすような男をなだめるにはそうするしかなかったのかもしれませんな」 「お前にはいくら説いても真の学問のすばらしさが伝わらんな。だから跡継ぎになれんのだ」 「ありがたいことで」 「で、アンも喜んでおったが、そのあと、教会のうるさがたがな」

2019-05-03 22:04:13
帽子男 @alkali_acid

ヘルムートは遠い目になる。 「異端審問官だのなんだのが、おおぜい兵隊を連れて来てな」 「ああ、雷を下すような危険な男を見逃せませんな」 「いやその件ではない。術師が禁書をあれこれと所蔵していたのが気に食わんと見えてな。今にして思えば商売敵のよその術師がけしかけたのかもしれんが」

2019-05-03 22:05:52
帽子男 @alkali_acid

ピケはまた一口飲み、うまそうに喉を鳴らすと、機嫌よく尋ねる。 「どうなったのです」 「うむ。師匠や弟子を捕まえて代官屋敷に運ぶと、拷問だのなんだの、最後は火あぶりにするとかで。吾輩は下働きなのではじめは放っておかれたが、あとになってやはり捨て置けぬとか、とにかく審問官が嫌な奴で」

2019-05-03 22:07:43
帽子男 @alkali_acid

「言ったでしょう。教会の連中は信用できないと」 「全部がそうかは知らんぞ。術師と取引のある連中も逐一調べるとかなんとかうるさくてな。腹が立ったので水銀の雷でまとめて吹き飛ばしてしまった」 「それはそれは」 「で、あそこの町にはいられなくなって、よそへ逃げたのだが」

2019-05-03 22:09:04
帽子男 @alkali_acid

恐ろしい勢いで疾駆する豚車の中で、博士はうんとのびをして思い出話を続ける。 「今度は東方のつやつやした磁器をなとか作ってみせろとうるさいなんとか侯爵のかき集めた錬金術師のひとりに紛れ込んでな。なにやら粘土の質が違って簡単ではなかったが」 「焼き物ですか?真の学問も色々ですな」

2019-05-03 22:11:31
帽子男 @alkali_acid

「うむ。何でも面白いものよ。卵の殻の白さをなんとか磁器にも移せぬものかと四苦八苦してな。あとは器を焼く炉の熱さに秘密があって」 「また許婚の話からそれてきましたな」 「かいつまむと、吾輩と同輩は磁器もどきを作るのに成功したのだが、すると侯爵が皆を閉じ込めて出さぬという」

2019-05-03 22:14:27
帽子男 @alkali_acid

博士の昔語りをつまみに、助手は火酒を飲んではまたツチブタに鞭をくれる。 汚らしい鳴き声が風に乗ってはるか後方へ流れてゆき、たまたま通り過ぎた宿場で眠る旅人に悪夢を見させた。 「なるほど、それでヴァンシーム嬢とは会いにもゆけず」 「さよう」

2019-05-03 22:17:27
帽子男 @alkali_acid

「どうやって出たので」 「侯子のひとりがときどき遊びに来ては、あれこれと注文をつけてな。やれ磁器の花を作れだの、軍馬のかたちの置物を焼けだの。閉じ込められて退屈している吾輩や同輩を楽しませるためか、単に本人の戯れか、剣術の試合などもやってみせた」 「誰と?」 「吾輩が相手役だった」

2019-05-03 22:19:14
帽子男 @alkali_acid

「剣など使えたのですか?」 「使えるものか。一人前の錬金術師を騙っていたが、まだほんのはなたれの小僧だった。歳の近い侯子にとってはうってつけのいじめの的だったのだろう。一番下端の吾輩なら痛めつけても仕事に差し支えがあるまいとも思っていたかもしれん」 「お気の毒に」 「ふふん」

2019-05-03 22:21:04
帽子男 @alkali_acid

ヘルムートは嗤った。 「なに剣術というのもな。要するに長いもので相手の筋だの血が沢山出るところだのをつついて壊せばいいだけのこと、腑分けと変わらん。死骸でなく生きたやつをばらすだけのことよ。吾輩はこつを掴んでな」 「まさか侯子を返り討ちに」 「まさか」

2019-05-03 22:22:17
帽子男 @alkali_acid

ピケの合いの手に首を振てからさらに続ける。 「吾輩はこっそりと工房で磁器もどきの甲冑と剣を作っておいた。ごく薄く軽く、丈夫なやつをな」 「役に立つので」 「真の学問を修めておれば、鋼より強く、絹のように軽い武具もしつらえられる。闇雲にやるのではない」

2019-05-03 22:24:35
帽子男 @alkali_acid

「逆上しなくたって真理の確信があり、信念を通そうという確固たるものがあれば、できるものだ」 「引くに引けぬ事情もありましたしね」 「そう。吾輩は密かに服の下に磁器もどきの装備をまとって、木剣を鞘に磁器もどきの刃を隠し持ち、侯子の戯れにつきあったあと」

2019-05-03 22:25:56
帽子男 @alkali_acid

錬金術師はにんまりする。 「やつを人質にとり、見事に城から逃げおおせた。だが侯子を解き放つ前にちと実験に使いすぎてな。父の侯爵がずいぶん怒って、以来あのあたりには近づけぬのだ」 「武具の方が」 「それがな。鋼より強く絹のごとく軽いと売り込んだのだが…ううむ。見た目がな」

2019-05-03 22:28:06
帽子男 @alkali_acid

「くすんだ茶と緑の斑で、七宝の類もうまく載らん」 「ははあそれは」 「甲冑というのは、頑丈さばかりではなく見た目も大事だとな。まったく貴族どもは話にならん」

2019-05-03 22:29:09
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