『記号と事件』と「記号の事件」

フーコーとドゥルーズの「言表」についての認識について 、萱野稔人さんを参考に考えてみました。
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zutabukuro @ClothSack

私は以前「言表」を純粋な出来事としてしまっていた。しかし、これは誤りだった。萱野稔人は「フーコーの方法」において「言表」について次のように述べている。「言表は、記号が存在するためにみずからのまわりに固有の諸関係をくみたてるときの機能にほかならない」(続)

2011-05-15 22:05:02
zutabukuro @ClothSack

(承)「言表」は記号の機能さらに言えば諸関係である。つまり、正確にいうならば「言表」は記号の出来事であったのだ。「レモン」という記号がある。この記号の機能、形作る諸関係が「言表」なのだ。それは、「レモン」が何とつながるかということであり、「レモン」という記号の出来事なのだ。(続)

2011-05-15 22:09:18
zutabukuro @ClothSack

(承)この記号の出来事という視点が、この度ジル・ドゥルーズの『フーコー』を読んだ時の違和感につながるものかもしれない。萱野稔人はドゥルーズの「言表」に対する認識について、「みずからの外にある力の関係に「奇妙に類似し、ほとんど一致することがある」統合=積分作用として位置づけて(続)

2011-05-15 22:16:16
zutabukuro @ClothSack

(承)いる」と述べている。つまり、ドゥルーズにとって「言表」と力関係(≒権力)の外にあるものなのである。先ほど、私は「言表」を記号の出来事であると述べた。これは、記号の事件と言い換えることもできるのではないだろうか。ドゥルーズは『記号と事件』について探求した。(続)

2011-05-15 22:24:18
zutabukuro @ClothSack

(承)これは、記号と事件、記号と事件なのである。記号と事件の間に分割線が引からている。しかし、フーコーが探求したのは「記号の事件」なのである。この点から私はドゥルーズの『フーコー』に対して違和感を持ったのではないだろうか。(終)

2011-05-15 22:27:06