第14回表象文化論学会大会2日目実況
- Cristoforou
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#repre14kyoto 「パネル1 「現代映画」におけるメディウムの横断/混交──文学・演劇とのかかわりから」 repre.org/conventions/14…
2019-07-07 10:04:29#repre14kyoto 三浦翔「映画空間における発話──オーソン・ウェルズ『マクベス』における演劇のアダプテーション再考」
2019-07-07 10:05:00#repre14kyoto アンドレ・バザンのアダプテーション論。 演劇のドラマは役者とせりふ、映画のドラマはカメラによるもの→演劇の映像化では、せりふを省略したり、背景を映像に置き換えたりする。せりふで語らないのがよしとされる傾向がある。
2019-07-07 10:06:20#repre14kyoto 演劇の映画化では、せりふで表現されていることを映像で表現しようとすることが多い。空間的な制約を超えられる。
2019-07-07 10:06:50#repre14kyoto バザンはこれに反論した。戯曲のせりふはドラマと切り離せない。また、戯曲のせりふは演劇的なセッティングの中でしか機能しない。→映画のカメラは自然を映し出し、役者なしでもドラマが語れるので、演劇の背景を自然な背景に置き換えるとせりふが機能しなくなる。
2019-07-07 10:08:09#repre14kyoto 演劇の特徴…役者の現前性、観客の積極的参加、登場人物との対峙を要求する。一方で映画は観客がたとえいなくても成立しうることがあり、登場人物との同一化を要求する。
2019-07-07 10:10:14#repre14kyoto あまり内容に関係ないのですが、黒字に白抜き文字のスライドはすごく部屋を暗くしないと文字が読みづらい
2019-07-07 10:10:40#repre14kyoto 意味の曖昧さを残した奥行きのある画面の変化→観客に能動的に意味を読み取らせる効果を持つ。このためバザンはオーソン・ウェルズを評価した。観客はウェルズの映画から知的注意深さを要求される。
2019-07-07 10:11:52#repre14kyoto ウェルズの映画は、ただ芝居をとっただけの初期映画ではなく、分析的モンタージュを経た上で奥行きを獲得している。演劇における「フットライト」の概念→分析的モンタージュにはフットライトがない→奥行きの画面には心の中にフットライトがある。
2019-07-07 10:13:21#repre14kyoto ウェルズ『マクベス』について。ヴードゥー・マクベス→シェイクスピアの舞台というよりはウェルズによるスペクタクル追究(→私見:そうかあ?)
2019-07-07 10:14:50#repre14kyoto 発話者の視線は誰とも交わらずに前方(観客の方)へと投げ出されている。→観客は能動的にテクストと向き合うことができる。
2019-07-07 10:25:27表象文化論学会第14回大会二日目に参加しております。午前中はパネル3「芸術の教育:戦前・68年・21世紀」におります。個人的には夕方のパネル07「映像と怪奇のゆくえ」に期待。京都大学の胡言先生による「空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』をめぐる日中比較的化け猫考」が気になります。 pic.twitter.com/95eSBrntuN
2019-07-07 10:26:15#repre14kyoto ストローブ=ユイレの議論でよく出てくる「異化作用」。『アンティゴネー』には異化作用とは違う要素があるのでそれを論じる。
2019-07-07 10:33:54#repre14kyoto 『アンティゴネー』はブレヒトの翻案だが、監督によると発端はブレヒトではなく、古代円形劇場で撮りたいというアイディアだった。シャウビューネ劇場から舞台演出を依頼され、映画化するという条件でOKした。
2019-07-07 10:34:49#repre14kyoto プロセニアム版と映画版の役者配置について。映画版でカメラが固定されているのは、プロセニアム版での理想的な観客席の位置をカメラで再現しようとしたため。ただしカメラが固定されていることは映画では意識しにくい。人物ごとにショット割ってる。
2019-07-07 10:37:42