- dzurablk_kai
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「ちょっと夜の風に当たりたくなってさ」 そう言う姉の「ちょっと」の頻度はここ数日、日増しに上がっている。 「帰りましょう」 踵を返すも、応えは無い。振り返るとタバコの火が夜の海に、手をひらひらと振るかのように揺れている。
2019-07-20 23:46:53その動きは「まあまあ、着いておいでよ」と誘っているようでもあり、「私はいいから先に帰ってて」と追い払うようにも見えたが、しばし逡巡した後、黙って着いていくことにした。 海は静かだった。酷く凪いでいる分、梅雨時特有の湿度の高い空気が肌にまとわりついて、重い。
2019-07-20 23:48:56墨汁の中を泳いでいるかのような、空と海の境界もわからない漆黒の中、姉から漂う紫煙の香りを頼りに進む。水平線の遥か彼方から射す灯台の灯りが覗いたかと思うとまた見えなくなる。月は雲に隠れて見えない。まるで自分の存在そのものが闇に溶けていくかのような、浮遊感。
2019-07-20 23:54:08これが所謂「夜の魅力」なのだろうか。夜な夜な無断外出を繰り返す姉を追いかけるうち、いつしかそう思えるようになった。 「独りでいると、落ち着くんだ」 ぽつりと姉が零した言葉はまるで、こちらの胸裏を覗いたかのようだった。
2019-07-20 23:58:02「最初は何も見えない、聞こえない、感じない。だけど段々五感が冴えていくと、視え始める。夜空の彼方の星明りに、どこかで崩れた三角波の潮騒が。でもそれも今じゃ、慣れ親しみすぎて何も感じない」 姉は歩みを止めると、空に向かってため息を漏らした。
2019-07-21 00:01:15姉の頭上にクラゲのようにたゆたう白煙が、目には見えなくともモノクロのマーブル模様よろしく曲線美を描きながら夏の夜の空気に溶けて行く様が視えた。 「見えてても見えなくても、そこにあるものはあります。存在が消えてしまう訳じゃありません」 『本当にそうかな?』
2019-07-21 00:07:09次の瞬間私は夜闇の向こう、前方にいたはずの姉に後ろから抱き寄せられていた。 腹部に回された腕に抱き寄せられ、両の頬をやさしく撫でた手が目元を覆い隠し、私は今度こそ何も視えなくなった。 『ほら、消えちゃった』 耳元で囁く言葉は夢の中で聞くような、おぼろげな声音。
2019-07-21 00:10:28煙のように捉えどころが無い存在に、私は今囚われていた。 『何も感じられないってことはつまり、自分が存在してないことと同じだよ。無を見つめすぎた人間はいずれ、自分も虚無な存在になっちゃうんだ』
2019-07-21 00:13:19シュレディンガーの猫と言うやつだろうか。箱の中にいる猫は箱を開けて観測されない限りその生死の状態は確定されない。姉の言はまるで、自らがその猫になったかのようだった。あるいは植物状態とでも喩えようか。 光も音も無い箱の中で姉には自身の生死が、どう観測されているのだろう。
2019-07-21 00:17:30クラゲの触手のように身体にまとわりついていた姉の腕から開放されてからも暫くは、身体が痺れたように動かせなかった。姉が再び点したタバコの光に、量子空間の狭間にたゆたっていた世界が確定され、私と姉の存在がこの世に再び固定されるまでは。
2019-07-21 00:20:05「私には…姉さんは、姉さんです」 そう口にしてから、ふと疑問が浮かんだ。人間の人間たる定義とは何だろうか、と。命の定義とは肉体か精神か、魂とやらだろうか。姉や私、肉体のどれくらいが残っていれば人としての存在が確定されるのだろうか。 顔の無い深海棲艦と私や姉、その瑣末な違いとは?
2019-07-21 00:29:11まるで天地が裏返ったような激しい眩暈に襲われる。吐き気は不思議と感じないが、三半規管が機能していない。海面を境にして水中に逆さまに立っているような気がした。私はまだ艦娘だろうか、艦娘でいられているのだろうか。確かにそうらしい、肉体はまだ私のままだ。
2019-07-21 00:31:44だがその肉体、あるいは精神までもが『深海棲艦ではない』という保障は、一体どこの誰が与えてくれるのだろうか。 そんな疑問に答えるかのように、いつしか二人の足元には、海流に運ばれ夜光虫が集まりつつあった。水面に妖しく光る燐光に姉の肌が青白く照らし出される。
2019-07-21 00:34:16「夜空に逆立ちしてるみたいでしょ?」 潮目の変わった海から立ち上る寒気が、足元から背筋を這いずり上がり鳥肌を誘発する。まるで蛍光を発する渦鞭毛草類のプランクトンが持つ毒のように、姉の言葉の一つひとつが肉体を凍えさせる。 「姉さん、帰りましょう…!!」
2019-07-21 00:37:45底知れない仄かな恐怖に突き動かされ、上ずった声が出た。姉と話しているはずなのに、そこにある存在がまるで姉ではなくなっていくような、奇妙な予感があった。 「ねえ、神通?」 姉が振り返る。嗤った口元で。 「神通には私は、どう視えてるのかな?」 そう言う姉の目元には、虚無が広がっていた。
2019-07-21 00:43:56陶磁器のように青く光る肌、その相貌にはヒビが広がって行き、目元からぼろぼろと内側に堕ちていく。姉にはとうに視えなくなっていたのだ、何もかもが。視界(ヒカリ)も精神(ココロ)も虚無に奪われてしまったせいで。
2019-07-21 00:47:54目元の割れ目を通して夜闇の虚無と姉の存在が、交じり合い同化していく。 それはなんとも皮肉な光景だった。闇を見つめ過ぎたあまりその虚無に魅入られてしまった姉の姿は今、内面から闇と化していくことで、陶磁器のような肉体の器が際立って白く見えた。
2019-07-21 00:51:41ここに至って私はようやく気付いた。姉には私の存在が端から見えてなどいなかったことに。姉が見つめ続けていたのは、姉が求めていたのは虚無そのものであり、今その答えを得たのだと。姉の背中をずっと追いかけ続けていた私には終ぞ、姉が見ていたものが視えないままだった。
2019-07-21 00:58:08姉は死を看詰め続けてきた。その姉の生に執着した私は、姉と同じ存在には至れない。そう気付いてしまったのだ。 姉の顔から広がったヒビはやがて首や肩にまで広がり、音も無く内側の虚無へと、その輪郭が呑まれていった。
2019-07-21 01:02:06咄嗟に手を伸ばした。 「待って…!! 私も今そっちに…!!」 顔の無い姉が、ふっと笑った気がした。次の瞬間姉の身体は砂のように粉々に砕けていた。見慣れたセーラー服だけをその場に遺して。
2019-07-21 01:03:28…目を覚ますとそこは、見慣れた暗闇だった。 またあの日の夢を見た。忘れることのできない夜の海の夢だ。 あの日以来、姉とは会っていない。どんなに追いかけても追いつけなかった姉は遂に、手の届かない場所へと旅立ってしまった。
2019-07-21 01:09:03『おはよう、※※※※チャン』 妹の声。私を呼んだらしい名前は掠れてよく聞き取れなかった。いつものことだ。 私は自らの顔に手をやった。存在を、輪郭を確かめるように頬を指先でなぞっていく。やがて冷たく固い感触が指に触れた。
2019-07-21 01:11:45