奈良・飛鳥旅行2019年後半

奈良・飛鳥にツイッター仲間3人で旅行してきました。後編です。
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かさぶた @kasabutabuta1

体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。

2019-09-06 00:54:59
かさぶた @kasabutabuta1

とまで称されながら悲劇の結末を辿った大津皇子。かなぁああああああああああああああああり推せます!!!だって!!なにこの!!事実は小説より奇なりな人生!!!高貴な身分に生まれ、自身も優秀。なのに天皇になれずあまつ処刑されてしまう!!!っていうの!!!!!!!!推すしかないでしょ!?

2019-09-06 00:57:25
かさぶた @kasabutabuta1

ちなみに草壁皇子の孫が聖武天皇です。そしてその聖武天皇は仏教に深く帰依し、後に東大寺と盧舎那仏を作るのです。はい!やっと大仏様と繋がりました! pic.twitter.com/7RMHiSpCLB

2019-09-06 01:01:50
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かさぶた @kasabutabuta1

ふう……推しについて語った……蘇我氏と物部氏、乙巳の変や壬申の乱などまだまだ語らなければならないところもあると思いますが、そちらは私よりも古代史に詳しい陛下と偽さんに丸投げさせていただきます✨✨

2019-09-06 01:05:31
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

壬申の乱は、自分と草壁皇子の王位継承に邪魔な連中(大友皇子と大津皇子)を葬ろうとした鸕野讚良皇女の策略に大海人皇子が乗っかったとしか思えん。

2019-09-06 01:13:11
かさぶた @kasabutabuta1

@Ryu_Yas0417 悪女wwwwwwwwwwwwwwwwやっぱりそうですよねwwwwwwwwwww

2019-09-06 01:13:55
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

@kasabutabuta1 鸕野讚良、近江大津宮を脱出する時に草壁だけ連れて大津は置き去りにするんですよ。大津は戦乱でどうなってもいいと言わんばかりの行動。酷い。

2019-09-06 01:16:23
かさぶた @kasabutabuta1

@Ryu_Yas0417 あの女ならやりかねねえ……と思ってしまうあたりwww大津は父帝の寵愛を受けるぐらい優秀な皇子で、かたや草壁はあまり言及をされてしませんのでお察しですし……多少なりとも焦りが彼女にあったんでしょうね……

2019-09-06 01:18:23

蘇我氏について

@niseusa

時は古墳~飛鳥時代、実在が確実視されている蘇我稲目から、確認されていないレベルだと蘇我石川宿禰から、蘇我氏は日本書紀に登場し、中央豪族そして大臣として、大和政権内で重要な地位を占めておりました。蘇我氏は鞍作氏、東漢氏などの渡来人を用いて勢力を伸ばしました。

2019-09-06 12:07:07
@niseusa

また、渡来人との結びつきが強かったこともあり、仏教伝来のときに蘇我稲目は私宅を向原寺とし、積極的に仏教を受け入れてきました。 物部氏滅亡後、蘇我馬子は飛鳥寺の造営に着手します。推古天皇に命じられ鞍作止利が作った飛鳥大仏は、609年に安置されました。

2019-09-06 12:19:45
@niseusa

蘇我馬子は推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)と共に政権運営に携わり、推古天皇より前に亡くなります。馬子の墓と言われているのが石舞台古墳で、蘇我氏一族が墓を作るべく集まっていたことが日本書紀にも記されています。

2019-09-06 12:29:54
@niseusa

蘇我馬子のあとを継いだと思われるのが蘇我蝦夷です。蝦夷は、推古天皇亡き後、次の大王を決める話し合いをしますが、結局聖徳太子の子である山背大兄王を推す境部摩理勢と意見が割れ、摩理勢を殺害するに至りました。 そうして即位したのが舒明天皇です。温泉大好き舒明天皇です。

2019-09-06 12:35:04
@niseusa

舒明天皇亡き後は皇后の宝皇女が皇極天皇として即位します。蘇我氏も蝦夷が病気を理由に子の蘇我入鹿に紫冠を渡し、勢力の強まっていた蘇我氏と天皇家との対立が深まっていきます。 そんな中、祭祀を司る一族である中臣家から、中臣鎌足が蘇我氏本宗家排除に乗り出します。

2019-09-06 12:40:20
@niseusa

中臣鎌足は軽皇子(後の孝徳天皇)に話をしにいったあと、中大兄皇子が蹴鞠をしているところに赴き、皇子と接触することに成功しました。 さらに蘇我氏の傍系である蘇我倉山田石川麻呂や味方に引き入れ、その娘を中大兄皇子の后につけます。おそらくこの2人の子が持統天皇です。

2019-09-06 12:46:13
@niseusa

ここで后につけようとした長女が日向(ひむか)に拉致られたので、代わりに遠智娘が后となります。日向さんこのあとまた出てきます。 そうこうして準備の整った中大兄皇子と中臣鎌足は、板蓋宮において皇極天皇の御前で入鹿を斬殺します。これが乙巳の変です。

2019-09-06 12:49:41
@niseusa

入鹿をさくっとやっつけた中大兄皇子は、飛鳥寺に立てこもります。飛鳥寺は現在の20倍ほどの敷地、すぐそばには蘇我市の邸宅のある甘樫の丘があります。そうこうしているうちにその邸宅から火の手が上がります。こうして入鹿も蝦夷も亡くなり、蘇我氏本宗家は滅んだのでした。

2019-09-06 12:51:33
@niseusa

さてこのあと、皇極天皇が位を譲った、皇極天皇の弟、孝徳天皇は、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂をつけます。しかし大化の改新から4年後、さっきも出てきた日向の謀略により、石川麻呂は造営中の山田寺にて自刃します。この事件は中大兄皇子の策略だったのではとも言われています。

2019-09-06 12:55:50
@niseusa

その後、山田寺は一旦造営を中止されますが、天智天皇そして天武天皇の御世において造営が続けられました。これには石川麻呂の孫である持統天皇の意向が強く働いたとみられています。 鎌倉時代付近には荒廃し、東回廊は土砂で埋まり、仏像は興福寺に奪われた上に燃えて頭だけになっています。

2019-09-06 13:02:07
@niseusa

以上、旅行2日目に訪れた場所にまつわる、蘇我氏の歴史概略でした。

2019-09-06 13:02:56
@niseusa

ついでに私見ですが。蘇我馬子が推古天皇に「葛城県」をくださいって言ったら、「後の天皇にバカにされるしあんたもひどい家臣だって言われるからやめとき」って突っぱねられる出来事が日本書紀に書かれています。 が、入鹿蝦夷の時代、葛城の高宮に祖廟を立ててるんですよね。

2019-09-06 13:09:27
@niseusa

これって、皇極天皇が「葛城県」を渡しちゃったってことかなあ、と。確信はできないんですが。 そう思うと、推古天皇が断ったのがのちの布石というか、フラグと言うか、蘇我氏本宗家は破れ皇極天皇も譲位したのはフラグ回収というか、そういう扱いなのかなとちょっと思いました。

2019-09-06 13:12:26

では二日目のまとめをどうぞ!

Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

奈良・飛鳥旅行記㉟ 2日目は朝5時に起床。前日にたくさんお酒を飲んだのに、全く頭が痛くならずスッキリとした目覚め。さすが、良い酒は悪酔いしない。シャワーを浴び、ホテルのアメニティのT字カミソリで髭を剃る。いつもは自分のものを使うが、今回初めてアメニティのものを使う。

2019-09-06 11:20:30
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

アメニティのカミソリは2枚刃なので、普段5枚刃を使っている私には使いにくい。切れ味が悪く肌を痛めているのがわかる。アメニティのシェービングクリームも泡立ちが悪い。荷物になるからと思って今回髭剃りのセットを持ってこなかったが、これは失敗だった。やはり使い慣れた髭剃りセットは必要だ。

2019-09-06 11:20:31
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