@mark_0809 @neosk318 @m_k_revoluter 野次とは批判のためにあるのは事実なのでしょうが、批判の目的はなんなのでしょうか? 多くの場合批判のための批判が現在の野次であると私は感じます。 まずはその体質改善に努めるべきではないのでしょうか?
2011-05-29 17:50:41@Ando0420 @neosk318 @m_k_revoluter 以前僕が聞いた話では、1.弁士が虚偽を述べることの防止 2.誤りの指摘によって誤った内容を聴衆が信じることの防止 かな。僕個人としては消極的な支持にとどまるけれど。
2011-05-29 17:53:55@mark_0809 @neosk318 @m_k_revoluter なるほど。そう考えると野次の必要性を感じますしね。質の高い野次はその目的をある程度達成できるでしょうし。 となれば問題はその目的を達成するための野次の質になるのでしょうか…
2011-05-29 18:00:52@mark_0809 @neosk318 @m_k_revoluter 無論嫌悪感を取り除くためのアプローチは必要ですが、事実を伏せて取り除くことは出来ません。 今できるアプローチとすれば、それこそ「あの野次に耐えれたら能力つくよ」といったものくらいな気がします。
2011-05-29 17:53:30@mark_0809 @ando0420 @m_k_revoluter その目的だと質疑応答でほぼカバーできる気がしますが… 野次にそんな高尚な目的というより、まあせいぜい弁論を盛り上げり役割くらいしか認められないような感じもします。だから人格否定のような盛りさげる野次はダメと。
2011-05-29 17:58:31野次ツイートがあがってるけど、弁論大会の野次を問題にするのは今に始まったことではない。僕の知る限り最古は1930年代に「今の野次は煩すぎてまるで話させないようにしているよう」と触れた清澤列。元ネタは岩波の評論集だったはず。
2011-05-29 18:00:48@neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter もし野次がただの盛り上げだとしたら、「余計なお世話だ」と僕は1人のSpeakerとして言いたい。だって、そんなものなくたって聴衆を感動させ、説得するのが弁士の務めだと思うから。
2011-05-29 18:00:56@Ando0420 @mark_0809 @m_k_revoluter 個人的にはそう考えている。弁論の論理欠如を鋭く指摘する野次とか時には笑を誘う野次があると面白い。ただ、野次は野次でしかないのであまり高尚な目的を定めると萎縮して野次がなくなるかもしれない。それはそれで寂しい。
2011-05-29 18:04:21@mark_0809 あ、昨年の全日本大会のパンフレットに野次の意義が掲載されていたはずですよ。ちょっと今手元にありませんが。
2011-05-29 18:04:22@neosk318 @Ando0420 @m_k_revoluter 個人的には笑いを誘う野次も好きじゃないけどね。だって、弁士が演出として「笑い所」にしたくなかった所を「笑い所」にしてしまったら、それは一つの作品をぶち壊してしまうと思うから。あくまで個人的な好みだけど。
2011-05-29 18:09:43@mark_0809 @neosk318 @m_k_revoluter 僕も笑いを誘う野次は不愉快ですね。弁士が訴えかけているのにそこを笑いに変える権利などないはずです。 そして私としては質疑で全てが賄えない以上、野次でその都度弁士の論理的欠如を指摘することは重要だと思います。
2011-05-29 18:16:40@mark_0809 @neosk318 @Ando0420 何か大正期ぐらいの議会で、野次のおかげで議論が進展したとか聞いたことがあります。それで野次が正当化され、いつしか慣習化されて、という流れで今に至るのでしょうか…
2011-05-29 18:12:58@Ando0420 @mark_0809 @neosk318 やっぱり野次のルールをより明確に規定して、違反した人間はもう二度と大会出さないくらいの厳しさを持って接することが重要。声の大きさ、内容など。「野次も責任ある発言」という厳しい姿勢で臨めば低質・多量な野次はなくなると思う
2011-05-29 18:22:21@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter 以下は昨年の全日本学生弁論大会のパンフレット上に掲載された野次の意義です。長文ですがご参考までに。
2011-05-29 18:11:58@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter 「(前略)野次は「弁論の華」と呼ばれるように、弁士の主張に対する聴衆の率直な言葉の投げかけとして意味のある行為であると言えます。→
2011-05-29 18:16:37@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter そこで大会実行委員会では野次には以下のような意義があると位置づけました。1弁論を通じた議論の活性化2弁士と聴衆の論点の共有化3議論の高度化→
2011-05-29 18:21:51@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter まず1についてですが、弁論とは弁士からの一方通行的な主張になりやすいという側面があります。そのため、野次によって聴衆からの反応を弁士や他の聴衆に→
2011-05-29 18:26:46@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter →に示すことで、周りにいる人を含めた活発な議論へと発展させることができるのです。次に2についてですが、→
2011-05-29 18:28:59@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter 弁士はまず自身の主張を弁論という形で表現します。しかし、その課程で弁士の主張とそれに対する聴衆のイメージ、考えには乖離が生じてしまう可能性があります。→
2011-05-29 18:31:36@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter そのため両者の乖離を放置しておくと、たとえどれほど質疑を繰り返したとしても、なかなか聴衆の納得する説明ができない場合があるのです。→
2011-05-29 18:33:57@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter →そこで、野次を通して、弁士は聴衆が自分の主張をどのようにイメージしているのか、あるいはどのような考えを持っているのかを探る必要があり、その意味においても野次は必要なものとなります。→
2011-05-29 18:36:55@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter →最後に3についてですが、弁論大会は広く多くの一般聴衆に開かれたものであります。しかし、弁論によっては話の内容が聴衆にとって馴染みのない分野であったり、→
2011-05-29 18:39:30@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter →話の内容そのもののレベルが非常に高度でなかなか理解しにくい場合があります。そのような際に弁士の情報以外に、野次などの多くの情報を通して→
2011-05-29 18:41:50@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter →聴衆は議論の内容を理解することができます。これにより、会場での議論をより高度なものへと高めることができるのです。」以上抜粋
2011-05-29 18:43:55@mark_0809 @neosk318 @ando0420 @m_k_revoluter 最後にこれは私見だけど、ホントにいい弁論は静かに聞けます。良質なものを規準にして当て嵌める訳にはいかないとしても、演壇に登るからには野次を黙らせるくらいの気概を持って欲しいです。
2011-05-29 18:47:49