まず奇行で知られていた普化が、僧堂の前で生の野菜を食べていた。中国においては、生食というのは一般的でないだろう。その事を恐らく踏まえて臨済は、普化に対して「まるでその所業はロバのようだな」と言ったのだと思う。
2011-05-28 22:10:34もちろん、一流中の一流の禅僧が、相手にとって不足はない、しかも一筋縄ではいかない相手に投げかけた言葉は、その生きている瞬間瞬間の生き様を問いかける打太刀の刃といえる。
2011-05-28 22:11:08それに対して普化は見事に対応した。ロバの鳴き真似をしたのである。この時の普化は恐らく照れも言い訳がましさもなく、ロバそのものになりきってロバの鳴き声をしたのだろう。
2011-05-28 22:11:47なぜなら人間に向かって「まるでロバのようだ」と言えば揶揄になり、攻撃になるわけだが、ロバに向かって「まるでロバのようだ」と言っても、それは面白くもおかしくもない。つまり普化は自分に向けられた揶揄の刃を一瞬にして奪い取り、無効化したのである。
2011-05-28 22:12:52そして、そこは流石に後世に名を残した臨済である。自分の言葉の刃が奪い取られたことを瞬間に察知して、「この泥棒め」と言ったのだろう。
2011-05-28 22:14:29せめて、この千分の一くらいでもこうした雰囲気を感じさせるような問答が教育現場で行なえるようになってくれば、世の中も変わって来るだろう。
2011-05-28 22:21:06つまり、そういう空気を感じて育った者なら、国会の対応も、企業が何かトラブルを起こした時の謝罪や事後対応も、また違ったものになってくるだろう、ということである。
2011-05-28 22:21:52ここまで書いていて、フトかつて名越康文・名越クリニック院長が女子高校生のカウンセリングをした後、その女子高生が思わずもらしたというコメントを思い出した。
2011-05-28 22:22:18その女子高生が何と言ったかというと、「ああ、やはり専門家の方のカウンセリングというのは、高校の先生が見よう見真似でやるカウンセリングとは、ずいぶん違うものなんですね」と…。
2011-05-28 22:22:57的外れだが、一所懸命にカウンセリング”もどき”をやっている、高校の先生に対して、心中「ああ、分かってないなあ」とは思ったものの、「ありがとうございました。心が少し軽くなりました」ぐらいの事は言ったのだろう。
2011-05-28 22:23:48こういう状況を『臨済録』では、「客が主を看(み)る」というのだろう。そして、先ほどの臨済と普化の問答のような場合は、「主が主を看る」と言うのだと思う。
2011-05-28 22:24:25このような世界を垣間見せてもらえるので、私は禅の世界には畏敬の思いを持っているのだが、これをただの物真似でやったら、これほど馬鹿馬鹿しく、みっともない事はないと思う。
2011-05-28 22:24:58現在、私がメールマガジン「虎落笛」で、禅の日本文化へ与えた影響の中でも、普段は論じられない負の部分について筆を進めているが、それは本質的に私が禅に深い思い入れがあるからである。
2011-05-28 22:33:58次回6月6日アップの「虎落笛」は、オイケン・ヘリゲル著『弓と禅』の中の中核をなすエピソードが、実はヘリゲル氏の創作であったと思われることを『禅という名の日本丸』を多く引用しつつ明らかにしていくが、次々回以後はさらにきつくなる。
2011-05-28 22:36:10それは、私が深く深く尊敬してやまない梅路見鸞老師によって開かれた無影心月流の、その後のあまりにも非伝承武道的な、悲しくも滑稽な内紛のことを通して武の道によって人間形成をするという事が、時にどれほどおかしな事が起こるかを述べる予定だからである。
2011-05-28 22:37:58そして、禅的対応の見事さを、むしろ本質的に生かされたのは、たとえば、亡くなられた整体協会の野口晴哉先生であったり、先ほども挙げた畏友の名越康文医師であったりしたのではないかということも書こうかと思う。
2011-05-28 22:38:34「虎落笛」では、そういうふうに筆を進める予定なので、御関心のある方は是非どうぞ。http://yakan-hiko.com/kono.html
2011-05-28 22:39:04