ふ、と音も無くリミテッドが消える。気付けばアガナは、真っ暗闇の中、フートンの上でアグラ・メディテーションを行っていた。果てない川も、白砂も無い。驚きも。だが上空には黄金立方体が回転しており、その輝きに照らされ、フートン上で光るものがあるのだった。 24
2019-12-09 21:33:03紫色の肌に、マスクを着けた人形。昔、製薬会社が流行らせようとしたキャラクターだ。それを手に取り、アガナは瞑目する。「リミテッド……」瞼の裏に、サンズ・リバーの情景を思い描きながら俯き、やがてフートンに寝転んだ。 25
2019-12-09 21:34:14ミズリは自我科の回転自動ドアをくぐり出た。久々のシャバの空気を吸い込むと、思い切り咳き込んで、笑う。(ネオサイタマにシャバなんてないってね)マケグミの彼女にとっては真理である。重金属酸性雨と汚染大気に包まれたこの街が、世界の全て。 28
2019-12-09 21:35:41それでも今は、少し汚染されていきたい気分だった。ミズリはいつになく神妙になっていた。病院送りにされたのは自分の責任だ、もう過ちを繰り返さぬよう、日頃の行いを改める……そう誓いすらした。(あんな所は二度とゴメンだからなあ) 29
2019-12-09 21:36:40それほどに自我科医院は陰気であった。医師も看護師も皆、目の焦点の合っていない連中ばかり。あそこに長くいるうちにそうなったのだろう。およそ真っ当な人間の入る施設ではない。更正しよう。彼女はそう感じた。 30
2019-12-09 21:37:27宵のケマル・ディストリクトを歩きながら、彼女は思いを巡らす。IRCは一日三十分に限り、外で身体を動かす。カラテ・エクササイズのドージョーにでも通おうか?帰りにどこか、寄ってみるのもいいかもしれない。 31
2019-12-09 21:37:43当然、ネオサイタマでそんな楽観的な行動が許される筈もないが……ミズリは今だけでも、解放感に満たされていたかった。路地裏に蹲る闇さえも暖かに錯覚する。彼女は高揚していた。無理もあるまい。 32
2019-12-09 21:38:44路地を過ぎ、遠くに離れた彼女を、朧な影が見送っていた。影の名は、アガナ・ヨウゴ。またの名をリミテッドという。その姿は、今正に足元から01の塵となって消えていこうとしている。にも拘らず、彼の顔はひどく穏やかであった。 35
2019-12-09 21:40:45成すべきことを成した。何も思い残すことは無い。死を目の前にアガナ・ヨウゴは、今に至る記憶を一瞬のうちにソーマト・リコールする。 路地裏からツカツカと歩み寄る、決断的な足音を聞きながら。36
2019-12-09 21:41:53アガナ・ヨウゴの瞳の奥で、一瞬一瞬が次々に映り替わる。企業ハッカーとしての仕事の末IRC中毒性自閉症となり、会社保障外の余罪から警察病院に収容されたこと。盲腸痕にインプラントした秘匿LANコネクタを無線アクセスポイントと接続、密かにIRCを続けたこと。 38
2019-12-09 21:42:56身動きの取れない現実を離れ、論理タイプの果てにコトダマ空間を見出したこと。豊穣の世界でニンジャの実在を知ったこと。病院の外で七年が過ぎようとしていること。社会が、彼の望まぬ形に姿を変えつつあること。 39
2019-12-09 21:44:04残してきた妹が、自身の使っていた機材を受け継いでハッカーを副業に生計を立てていること。その妹もまた、IRC中毒となったこと。彼よりも症状が重く、今夜、彼女はとうとうフラットラインを迎えようとしていること……。 40
2019-12-09 21:44:54妹が……アガナ・ミズリが死に瀕している。それを知った瞬間、アガナ・ヨウゴのニューロンはスパークした。正しく電撃的速度でグローバルなコトダマ空間を駆け、己のUNIXが用いたプロキシサーバを介し、妹のローカルコトダマ空間のIPに辿り着いた男は愕然とする。 41
2019-12-09 21:45:38時既に遅し。【贖】とショドーされた旗を掲げる、小さなコインランドリー。家名と、兄の犯した行いへの罪滅ぼしのダブルミーニング。妹のコトダマ内面であったそれが、ミズリの魂と呼ぶべきものが、朽ち果てて01に消えんとする様を、彼は見た。 42
2019-12-09 21:46:20許されることではなかった。認められるものではなかった。アガナは叫んだ。誰でもいい、助けてくれ。ブッダか、死神か。ダメだ、実在しない。誰か。俺の命を捧げる。誰か。そうだ……ニンジャならば! 43
2019-12-09 21:47:30思いつく限りをぶちまけ終えた頃。アガナの前に、突如それは現れた。月と黄金立方体に照らされた、朧な人影。ニンジャソウル・ディセンション現象。そう呼ぶらしい。死に行く者がニンジャの亡霊を見ると、その命をもらって蘇ることができるというのだ。 44
2019-12-09 21:48:16死せる妹の元に現れたのだろう、その影が、ミズリのソウルに触れようとする。アガナは不意に、言いようの無い不安に襲われ、掴みかかる。振り向く影。ノイズ。混濁する自意識。何が起きたのか、何を自分が起こしたのか、すぐにはわからなかった。 45
2019-12-09 21:49:16やがて、荒れ狂うコトダマの中で、うっすらと理解した。自身がアガナ・ヨウゴであり、アガナ・ミズリであり、紫の影……ニンジャであることを。原理はわからない。希薄化した二人分の自我と朧な影とが混ぜ合わさり、丁度人間一人分のソウルとして固着したのだった。 46
2019-12-09 21:50:18もがき苦しむアガナに、「自問」するものがあった。ニンジャだ。その存在は一つの提案を持ちかけた。このままでは諸共に死ぬ。ニンジャの力とカラテを使え。生き残りたければ。その女を、死ぬ気でKICKしろと。 47
2019-12-09 21:51:50深く考える余裕も、そのつもりもなかった。妹の意識は、未だ眠ったままだ。このニンジャの言いなりになるわけにはいかない。(ろくでなしですまなかった、ミズリ)アガナは己を強いて決意し、行動した。 48
2019-12-09 21:53:08