(2020年6月19日に中断)日本語で学ぶアメリカ史 第七章 パート2 (教材:David M. Kennedy and Lizabeth Cohen, "American Pageant'' 16th ed.)

注:本プロジェクトは2020年6月19日に凍結しました。以下はそれ以前の文章です。 ここから節毎に(章-パート-節)を示す番号を振り分けました。 また、画像史料も使い始めました。
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●American Pageant, 16th ed. 117-134頁 第7章「革命への道:1763-1775」 パート2

2020-04-24 19:00:27
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・タウンゼンド茶税とボストン「虐殺」(7-2-1) イギリスではチャールズ・タウンゼンドが内閣の支配権を握りました。彼は1767年、「タウンゼンド諸法」を通します。ガラス、白鉛、紙、塗料、茶への輸入関税が注目されます。彼は内税と外税という区別を設け、 タウンゼンド pic.twitter.com/txjICvkYee

2020-04-24 19:00:30
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アメリカの港でも支払可能な間接的関税に仕立て上げました。これは印紙法と異なる点です。しかし、植民地人にとってはどんな税金だろうと代表なき課税は敵でした。とりわけ茶税が嫌われました。100万人が一日に2回飲んでいたと言われるからです。  タウンゼンド諸法は集めた税金を、

2020-04-24 19:00:30
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国王に仕える総督や判事の給与に使うとしていました。これは本国にとっては長く放置されていた問題でした。しかし、植民地人は彼らの財布を今まで握っていたので、タウンゼンドはこの権限も奪う気だとみなしました。そして、1767年ニューヨーク植民地議会は宿営法に背いたとして停止させられました。

2020-04-24 19:00:31
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輸入拒否協定が再び盛り上がりましたが、前回より効果は弱くなっていました。印紙法よりは軽く、間接税だったのであまり脅威とみなされませんでした。また、茶の密輸がとりわけマサチューセッツで盛んとなっていたのも一因でした。これが安かったのです。 輸入拒否協定を掲載する新聞、1768 pic.twitter.com/tRGOEYUD2e

2020-04-24 19:00:34
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イギリスは法と秩序の崩壊を見てとり、1768年ボストンに2連隊を送りました。彼らは当然ながら植民地人に嫌われました。そして1770年3月5日、町人約60名がイギリス軍兵士10人に雪玉を投げつけました。イギリス製品ボイコットに従わない商人への抗議運動が十日前にあり、

2020-04-24 19:00:34
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その時11歳の少年が射殺されたので町民に怒りが溢れていました。恐らく命令もない状態で兵士達は発泡を開始、11人を死傷させました。これが「ボストン虐殺」と呼ばれる事件です。死者の一人が当時「ムラート」とみなされた人物で、この町民達を導く存在でした。 「ボストン虐殺」版画、1770 pic.twitter.com/zGQndGUODU

2020-04-24 19:00:36
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どちらにも非があるということで、その後の裁判で虐殺の罪に問われた兵士は二人だけでした。ちなみにこの時兵士を弁護したのが将来の大統領ジョン・アダムズです。 1.ジョン・アダムズ 2.ボストン虐殺裁判記録、1807 loc.gov/law/help/rare-… pic.twitter.com/0kPTFjlNH4

2020-04-24 19:00:38
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・連絡委員会の煽動(7-2-2) 1770年、ジョージ3世は自身の権力を高めようと、周囲をイエスマンで固めました。その筆頭が首相のノース卿でした。  タウンンゼンド諸法は徴税に失敗し反乱の機運を高めただけでした。一年の税収はわずか295ポンドだったところ、植民地駐在軍は17万ポンドもの支出でした。

2020-04-24 19:55:06
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輸入拒否協定は本国製造業者を苦しめていました。ノース卿内閣は諸方面の圧力からタウンンゼンド諸法を撤廃しました。しかし、最も忌々しい茶税はイギリス議会の植民地に対する課税権を示すため残されました。 1.ジョージ3世 2.ノース卿 pic.twitter.com/Hd2l5Nu4hR

2020-04-24 19:56:01
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様々な出来事が植民地人の怒りを買いました。例えば航海諸法を執行する役人が倍増されました。ジョン・アダムズの従兄弟でボストンの技師、サミュエル・アダムズのプロパガンダも人々を煽りました。政治一辺倒な男で、友人達が適切な衣服を買ってやらねばならない有様でした。 サミュエル・アダムズ pic.twitter.com/clRtegBLFr

2020-04-24 19:57:08
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ですが植民地の権利には非常に敏感で、彼は「訓練された暴徒」に強く訴えかける力がありました。  彼はマサチューセッツに「連絡委員会」を設立しました。1772年ボストンに最初の委員会を設すると、まもなく80もの委員会が同様にマサチューセッツ内で設立されました。

2020-04-24 19:57:53
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主な目的はイギリスに抗議し続ける士気の維持でした。  次は植民地間の連絡が課題になりました。1773年、ヴァジニア下院議会は常設連絡委員会を設置。まもなく全植民地が中央委員会を置き、植民地間の思想と情報が交換されました。こうした組織が第一回アメリカ大陸会議へと発展していきました。

2020-04-24 19:58:41
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・暗雲たちこめるボストン(7-2-3) 意外にも、1773年までに反乱の機運は弱まってきました。輸入拒否協定は弱体化していました。また、茶税を課された茶をしぶしぶ飲む植民地人が増えつつありました。その方が密輸茶どころか本国の茶よりも安くついたからです。 茶密輸風刺画 bostonteapartyship.com/tea-blog/tea-s… pic.twitter.com/UiksBuEvlc

2020-04-24 20:12:32
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しかしこの年、情勢は変化します。その頃、1700万ポンドもの茶を余らせていたイギリス東インド会社は破産の危機にありました。そうなればイギリス政府は大きな税収源を失ってしまいます。そこで政府は同社にアメリカの茶事業の独占権を与えました。

2020-04-24 20:12:33
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今や東インド会社は茶税を課された茶より更に安価な茶を販売可能になりました。ところがアメリカ植民地人は喜ぶどころか怒り出します。安い茶を餌に、忌々しい茶税を心から受け入れさせようと策略を仕掛けているに違いないと。  もしイギリスが法を額面通りに実施すれば、衝突は不可避でした。

2020-04-24 20:12:35
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そして運命の分かれ道、イギリスは法の執行に踏み切りました。こうして植民地側も怒りが燃え上がりました。フィラデルフィアとニューヨークでは茶の積まれた船をそのままイギリスに追い返しました。チャールストンでは脅された地元商人が運送を拒絶したため、役人が関税不払の名目で茶を押収しました。

2020-04-24 20:12:36
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ボストンではイギリス側も抵抗しました。マサチューセッツ総督トマス・ハッチンソンは印紙法の際に抗議者に家を焼かれたことがありましたが、今回は尻込みしませんでした。彼は茶税を正しくないと認めたものの、それ以上に植民地人が法を破る権利はないと主張しました。彼は東インド会社の船に対し、

2020-04-24 20:12:38
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積荷を下ろすまで出航を禁じました。植民地人は当然反発します、また、ハッチンソンの政敵が彼の私的な書簡を暴露したのも反感を高めました。「いわゆるイギリス人の自由を縮小すること」が植民地の法と秩序の維持に必要だと書かれていたのです。

2020-04-24 20:12:39
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1773年12月16日、約100人のボストン住民がインディアンに扮して船に侵入、342箱もの茶を海に投げ捨てました。これが有名な「ボストン茶会」事件です。大勢の野次馬がその様子見て喜びました。茶は貧富を問わず広く消費されており、植民地人が集結できるシンボルでした。 ボストン茶会事件平板画、1846 pic.twitter.com/CAU5ODBTaw

2020-04-24 20:12:42
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東海岸の人々は上下共に賛同しました。ボストン住民は茶葉を団結して燃やしました。一方保守派は私有財産の破壊で法律違反だと非難しました。ハッチンソン総督はアメリカ植民地に嫌気がさして帰国、二度とアメリカに戻りませんでした。 1.ハッチンソン 2.ハッチンソン邸炎上 colonialsociety.org/publications/3… pic.twitter.com/3XMhtUhHgz

2020-04-24 20:12:51
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イギリス政府は無礼な植民地人をしばき上げる以外に考えを持っていませんでした。この時点でいくらか自治権を与えていれば独立を防げたかもしれないのですが、イギリスも既に態度が硬化していました。もはや事態は悪化する一方でした。

2020-04-24 20:12:52
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・議会、「耐え難き諸法」を制定す(7-2-4) イギリス議会はボストン茶会事件に対し、火に油を注ぐ措置をとります。1774年、議会はマサチューセッツ全般を、とりわけボストンを懲罰する一連の法案を大多数の賛成で通しました。  中でも劇的なのがボストン港法でした。

2020-04-24 20:20:50
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同法は茶会事件で損害された財産が賠償され秩序が回復されるまで、同港の封鎖を命じました。このように「耐え難き諸法」(アメリカでの呼称)はマサチューセッツ植民地の勅許を受けた権利を多く剥奪しました。以前までと異なり、任務中に植民地人を殺害した役人は本国で裁かれることになり、

2020-04-24 20:20:57
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疑り深い植民地人は無罪放免にするためだと考えました。とりわけ新宿営法はボストン住民を憤らせました。地元当局にイギリス軍が私宅だろうとどこでも駐屯できる権限を与えたからです。  同年、さらに「ケベック法」が制定されました。本来「耐え難き諸法」と無関係な法律でしたが、

2020-04-24 20:20:59