(2020年6月19日に中断)日本語で学ぶアメリカ史 第七章 パート2 (教材:David M. Kennedy and Lizabeth Cohen, "American Pageant'' 16th ed.)
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アメリカ植民地人にはイギリスの制裁に映っていました。この法律はカナダに住む6万人ものフランス系住民をどう統治するかという長年の議論に対する回答であり、それ自体は優れたものでした。フランス系住民はカトリック信仰を許され、彼らの慣習や制度の存続も認められました。 ケベック法文書 pic.twitter.com/JnW4MwW7B1
2020-04-24 20:21:03その慣習・制度の中に代表制議会や民事陪審制はありませんでした。また、ケベックの境界が南に拡大し、オハイオ川で再規定されました。 これはアメリカ植民地人にとっては恐るべきことでした。「耐え難き諸法」は個別に狙い撃ちする内容でしたが、 英領北米植民地地図、1777。上辺部緑がケベック領 pic.twitter.com/2wt8q0bLeQ
2020-04-24 20:21:07ケベック法はアメリカ植民地の多くに影響し得るものでした。非代表制議会と非陪審制が慣習の住民は危険な先例に映りました。土地投機にも影響がありました。ケベックの境界再編により、アレゲニー山脈より先の広大な土地がなくなったからです。また、境界再編はカトリック勢力の拡大にも見えました。
2020-04-24 20:21:09・流血(7-2-5) イギリス抵抗派はマサチューセッツの事態に同情していました。確かに茶会事件は間違っていたかもしれないが、この懲罰もやり過ぎではないか。ボストン港法の実施日には植民地の各地で半旗が掲げられました。遥々サウスキャロライナから米を運送して応援する者もいました。
2020-04-24 20:30:22「耐え難き諸法」への反応としては1774年の「第一回大陸会議」の召集が最も目覚ましいものでした。フィラデルフィアにて植民地の不満を訴える方法を検討するのが目的でした。ジョージア以外の12の植民地が計55人の代表を送りました。その中にはサミュエル・アダムズ、ジョン・アダムズ、
2020-04-24 20:30:33ジョージ・ワシントン、パトリック・ヘンリーがいました。この場は植民地間の対立を緩和する効果もありました。 第一回大陸会議は1774年9月5日から12月26日まで開催されました。立法機関というより諮問機関であり、だから議会(congress)というより会議(convention)でした。 第一回大陸会議開催地 pic.twitter.com/89c5VwBPhb
2020-04-24 20:30:38ここではジョン・アダムズが大活躍。彼は参加者を雄弁に説得し、穏健派の自治権案を辛うじて否決させるに至りました。この会議は権利宣言など重大な声明書を発し、他の植民地、国王、イギリス人に訴えかけました。 第一回大陸会議の最も重要な点は「同盟」(Association)の設立でした。
2020-04-24 20:30:40これは輸入拒否協定よりも更に急進的な、完全なるイギリス製品のボイコットを呼びかけました。輸入しないだけでなく、輸出、消費もしないというのです。ただし、独立はまだ主張しておらず、あくまでイギリス議会による悪辣な課税を撤回し、元の関係に戻りたいということでした。 「同盟」文書複製 pic.twitter.com/KV9wPUC5nJ
2020-04-24 20:30:45聞き入れて貰えるならそれでよし。そうでなければ、1775年5月に再結集することになっていました。 1775年4月、ボストンのイギリス司令官は近郊の「レキシントンとコンコード」に軍隊を派遣しました。植民地の火薬庫の確保と、
2020-04-24 20:30:47「反乱」の首謀者サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックの捕縛が目的でした。レキシントンでは現地の「ミニットマン」が即時解散を拒絶すると発砲され、8名の植民地人が死亡。これは戦闘というより「レキシントン虐殺」と言うべき代物でした。イギリス軍はコンコードに進軍し、 ハンコック pic.twitter.com/dQspbeJGXx
2020-04-24 20:30:51ここで植民地人によって後退を強いられました。イギリス軍は困惑したままボストンへと撤退。約300人の被害を出し、その内70人ほどが死亡しました。いよいよ戦争の始まりでした。 1.レキシントンの戦い 2.コンコードの戦いの開始地点、オールドノースブリッジ ●パート3に続く pic.twitter.com/mDRdRqq16W
2020-04-24 20:31:00