「Ooi Ocha」の件 @dwsk_w 氏による

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スピカ @spica819

梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど   外山一機 http://bit.ly/khK0zm

2011-06-16 12:28:02
Daisuke IKOMA @dwsk_w

というか、今回の件で僕が一番関心を持っているのが、「Ooi Ocha」添削で話題の仁平勝氏は http://t.co/tLm22jO というある意味での「コンセプチュアルアート」を週俳に発表していたこと。これも、コンテクストの一部だろう、おそらく。

2011-06-17 02:57:45
Daisuke IKOMA @dwsk_w

僕の記憶では、当時仁平氏の作品を「コンセプチュアルアート」として読み解いた人は少なかったように思う。それは作品の完成度や見せ方の問題なのかどうか。

2011-06-17 03:03:32
Daisuke IKOMA @dwsk_w

「手を抜くことも芸のうち」はヒントとして十分だと思うんだが。

2011-06-17 03:04:33
Daisuke IKOMA @dwsk_w

もちろん、僕は気づけなかった人のひとりなのでえらそうなことは全然いえません。

2011-06-17 03:05:57
Daisuke IKOMA @dwsk_w

例えば、「読者の幸せ」を考えたときに、外山さんの作品を純粋な一作品として読んで幸せな気分になった人(座談会での小川さんのような読み方をした人)に、「これはコンセプチュアルアートなんだよ。それはこれこれのコンテクストがあるからね」と言って初読の「幸せ」を奪うことは必ず正しいのか。

2011-06-17 03:10:38
Daisuke IKOMA @dwsk_w

幸せという言葉を出すと問題が複雑化しすぎる気がする。

2011-06-17 03:11:54
Daisuke IKOMA @dwsk_w

なぜなら幸せという限りなく主観的なものは作品に内在するというより読者それぞれが大事に抱えていくものだと思うから。

2011-06-17 03:13:27
スヌーズの多い生涯 @ayan0o_o0

@dwsk_w 他のコンテキストを知っていることが正しい読み方だとは思いません。ただ、作者も擬態を意識して作品を出し、その事実を知らないまま読み終えるのは、詰まらないというかもったいないかなと。擬態を知らずに初読の感動、の後に擬態を知ってまた読めたら幸せのベストなのでしょうが無理

2011-06-17 04:16:59
藤幹子 @mikikofuji

私もそれがベストと思う RT @ayan0o_o0: @dwsk_w ただ、作者も擬態を意識して作品を出し、その事実を知らないまま読み終えるのは、詰まらないというかもったいないかなと。擬態を知らずに初読の感動、の後に擬態を知ってまた読めたら幸せのベストなのでしょうが無理

2011-06-17 09:28:34
Daisuke IKOMA @dwsk_w

さて、外山さんの「Ooi Ocha」コンセプチュアルアート論に関してはspicaの記事の中で高柳さんが述べていることがやっぱり良い意味でも悪い意味でも重要だと思う。「(高柳)『お~いお茶』への悪意、っていうのかな、批評は、あきらかだけどね。」とあるが、外山自身の言葉を借りると、

2011-06-17 20:40:35
Daisuke IKOMA @dwsk_w

「(外山)『お~いお茶』の句にも『高さ』はある。それは表現としての『高さ』ではなく、表現するという行為の尊さの謂であろう。むろんその尊さは絶対的なものではないけれども、たとえば『お~いお茶』の句についてそれを子規の句よりも表現として劣ることをもって批判の対象とするのは、(続く)

2011-06-17 20:42:13
Daisuke IKOMA @dwsk_w

すでに『俳句』や『俳句』に携わる人間のたたずまいを根本のところで見誤っているように思われる。少なくとも、『いま』『ここ』において『俳句』を負う僕らの命題は、そんな狭小な地点から見えてくるものではないのである。」 via 詩客 俳句時評http://t.co/EmD72Ex

2011-06-17 20:43:20
Daisuke IKOMA @dwsk_w

というように、高柳氏の言う「コンセプト」と外山氏の思想にはずれがあるように読み取れる。

2011-06-17 20:44:53
Daisuke IKOMA @dwsk_w

ここで重要なのは、高柳氏の誤り(であると僕は思う)自体ではなく、コンセプチュアルアートであってもコンセプトに対する「読み」のブレが生じうるという至極当たり前の事実である。

2011-06-17 20:47:18
Daisuke IKOMA @dwsk_w

ここで、問題を提示する。作品自体の持つ意味や価値、創作意図に対する「答え」が作者の持っている「答え」と必ずしも一致しないという考え方はテクスト論の立場に立てば前提である。それと同じこと、すなわちコンセプチュアルアートにおけるコンセプトの「答え」は作者の持つそれと必ず一致するのか。

2011-06-17 20:52:38
Daisuke IKOMA @dwsk_w

僕はテクスト論に明るくないのでその命題が一般的にどのように認識されているのかはしらない。(知っている人、解説してくだされば幸い)

2011-06-17 20:56:19
Daisuke IKOMA @dwsk_w

しかし、コンセプチュアルアートが「批評」の立場にあるとすれば、作者の意図と批評の成果が一致していなければ、あまり意味がないと僕はナイーブに感じる。

2011-06-17 21:06:50
Daisuke IKOMA @dwsk_w

ちょっと本筋から外れているな。

2011-06-17 21:07:47
Daisuke IKOMA @dwsk_w

ゴールを忘れないうちに先に言ってしまうと、僕が面白いと思ったのは、「Ooi Ocha」という作品が①お~いお茶への「悪意」「批判」 or ②お~いお茶作品への再評価を促す試金石であったとしたとき、「Ooi Ocha」はお~いお茶作品より(従来の評価軸で言って)上手いべきであるか。

2011-06-17 21:14:44
Daisuke IKOMA @dwsk_w

より正確に言えば、「お~いお茶」という従来の評価軸によって並んでいない「優秀作品」から「ボツ」作品までの山の中のどれを狙うべきであるか。

2011-06-17 21:17:20
Daisuke IKOMA @dwsk_w

むしろ、狙えるのか。

2011-06-17 21:19:28
Daisuke IKOMA @dwsk_w

外山作品は、「お~いお茶」の現状に擬態しているというよりも、「俳人の(俳壇のと言ってもいいだろう)思っている『お~いお茶』作品」に擬態しているように僕は感じた。

2011-06-17 21:21:02
Daisuke IKOMA @dwsk_w

それは、作品の質として比較的粒がそろっている(外山作品は平易で意味が通り過ぎているという点でほぼ共通しているが、実際はけっこう飛んでいる句も多い)ことや、父・子俳句に限っている(吾子・親俳句はそこまで主流ではないように感じた)ことなどによる。http://t.co/Enh2acm

2011-06-17 21:33:02
Daisuke IKOMA @dwsk_w

よって、「お~いお茶」に擬態したコンセプチュアルアートであると仮定したとき、唯一の評価軸である「何に擬態しているのか分かるか」という点に関して言えば、その評価は意外に難しい。(お~いお茶に擬態して作品を発表するというコンセプトだけ提示するのであれば、このタイトルは駄目でしょう。)

2011-06-17 21:37:37