梅原彩香 さんによるカオスラウンジ宣言の考察
- nakamihainai
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うん、カオスラウンジ、多分彼らは、基本的に素朴に作家として成功したいし、多分彼らの身体感覚的な所での”アート”というものの感覚は、かなり素朴なんだろうと思います。どう見ても、アートなるものの神秘性をまるまる信じている。
2011-06-28 22:11:30彼らが、真実宣言文通り、個としての作家性や、(最終的にそれを肯定したいのか否定したいのかは分かりにくい文章だけれど)、アートの神秘性、なるものに批判的であるならば、彼らの作品の形態や発表の仕方はもっと違ったものになる筈です。(写真しかみてないけど)
2011-06-28 22:13:30言い添えますけども、わたしはいま、彼らの作品の良し悪しについては何も言っていない。…そもそも、どうも制作意識のとこで、彼らと共有するものが少ないので、作品みてもピンとこないんです。そこを論じるのは、はっきりと彼らの作品を支持する人(あるいは否定する人?)に任せます。
2011-06-28 22:16:55今回の梅ラボ騒動、については、作り手として、他所の表現に対するリスペクトや礼儀の点で、作家の側に問題があった、と思います。批判に対する、彼らのリアクションも、一応追いかけましたが、結局、アートであることを、言い訳にしてしまっている感が拭えない。アートの神秘性の否定と、これも矛盾。
2011-06-28 22:22:02わたしが、何か既視感覚えて、問題だよなあ〜と思ったのは(自分のことも含めてよ)なんで、現代アート畑の人間てのは、ともするとやってることと、言ってることの乖離が激しくて、そのくせ言葉が過剰になりがちなのだ????!ということ。
2011-06-28 22:27:19だけど、その中でも、現代アート専攻やら、コンセプチュアル系やら…あのへんやら、このへんやら…、の専攻の学生は、中途半端に、知的(に見える)言葉の洗礼をうけるのよね。ラカンやら、ドゥルーズやら、レヴィ・ストロースやら、やら、やら…。
2011-06-28 22:36:06するってーとですねえ、(知的かどうかはおいといて)小器用な学生は、なまじっか、知的(そうな)言葉を使えるようになるわけです。で、他の日本画やら、洋画やらのせんこうだと、まずそこまで、哲学書かじれの、のプレッシャーがかかるこたないので、先端表現系の学生は学内でも頭が良さそうに見える
2011-06-28 22:40:59だけど、実は全然修行が足りないんです。論理での戦いでつぶされそうになるとか、人の言葉を転用しているだけでは駄目だとか、自分の論理の破綻の結果を引き受ける、とか、そんな経験はまったくつんでいない。…そもそもが、制作系の学科なので、卒業にも論文の提出が必要なかったりするし。
2011-06-28 22:45:41すると、しばしば、ちょっと小器用に作品が作れて、どこからか引用したような言葉を小器用に使い回せて、…それで自分は知的な(分ちょっと高級な)作家だと思い込む人間が出来上がりがちです。
2011-06-28 22:48:37…しかしま、時々ほんとに洒落にならなく話の通じない、けれど、自分は知的だと思い込んでて嫌われるタイプの作家がいるとしたら、ある程度、こういう構造の犠牲者かもしれません…。擁護はしないけど。
2011-06-28 22:53:53梅ラボ、カオスラウンジの、一連の騒動、および、彼らの対応の仕方の、どーもマトのずれた感じをみるにつけ、何か、そんなことを思い出しました。思い出して恥ずかしくなりました…うぅん。
2011-06-28 22:56:29さてここからは完全に独り言。アーキテクチャ、アーキテクチャとさっきから考えているんだけども、カオスラウンジの宣言文は、創造行為に対する姿勢としては、なかなか面白いものを開きかけていたのかも知れない、とふと思ったのだ。
2011-06-29 01:03:48ここでは、商行為としての芸術活動は一応排除する。売れようが売れまいが、観客がいようが、いまいが残る、作ることの衝動についての話。何かを作るときに、その作る、という衝動が誰のものか、ってのはなかなか大きなナゾだと思うんだ。
2011-06-29 01:06:39近代以降の『芸術』というものは、ある作品を、個人としての名前をもつ作家に帰属させる、という所に一つの特徴がある。ある作家の才能も、その結果としての作品も、その作家個人に帰属するという考え方。(…まあ、この辺から著作権、とかの話が派生すると思うのだけど。)
2011-06-29 01:09:17