「念」「定」は善か

「念」「定」についてのやりとりです。個人的な備忘録としてまとめました。記憶が曖昧なままやりとりしていたので、間違いもあるかもしれません。
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中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

梅原の云う「空海の思想」って何なんだ。仏も人も六大で出来てるから一緒なんだーって、千二百年前の未熟な科学だろ。そんなもん現代に於いて世界は炭素で出来ているから私も世界も同一だーというのと一緒。それで?

2011-06-28 22:44:43
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

真言宗は平安時代の最新知識でしかなく現代には意味がないとは思ってるけど、それでも気分のものとして、メタファーとして受容れるというのならワカラナイでもないが、地水火風空を文字通り地水火風空として扱うなんて、梅原は千二百年前に住んどるのか。正直とても迷惑。こっちがアホや思われるわ。

2011-06-28 22:52:45
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

真言密教によって即身成仏が出来るならドラクエやFFやってても即身成仏できる、仮面ライダーやスーパー戦隊を視聴してても即身成仏できる、というのが手前の説。密教は千二百年前に比べて実際に期待出来る効果がとても小さかったのよ。空海の頃には極端な論理の飛躍が沢山あったからね。

2011-06-28 23:10:10
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

もう密教なんて『孔雀王』の時点でネタでしかないと思うんだ。結局うちらポッタリアンみたいなもんでさ、真言なんて、エルフ語かバルカン語かゼントラーディ語みたいなもんでしょ、もう、プロトカルチャ~とかいって狼狽えてりゃいいよ、真言坊主なんて。

2011-06-28 23:17:57
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

真言に功徳があるならタッカラプト・ポッポルンガ・プピリット・パロでも功徳がある筈。

2011-06-28 23:26:55
けちゃっぷ @maatakun

@ms06r1a マントラを使ったサマタ瞑想と考えた場合、となえる言葉が何であっても、雑念を制御して何かに集中する訓練をしているわけで、功徳(訓練の成果の蓄積、トレーニング成果)はあります。

2011-06-28 23:32:13
けちゃっぷ @maatakun

@ms06r1a 悪を行えば行うほど悪の癖がつき(罪業)、善を行えば行うほど善の癖がつく(功徳)。精神集中(善)を行えば行うほど精神集中の癖(功徳)が積もる。精神集中は雑念による悩みを制御する能力だから、善(悩み苦しみを解決する方向)である。

2011-06-28 23:35:28
けちゃっぷ @maatakun

@ms06r1a 三密加持とか詳しくは知らないけど、身(手で印を結び)・口(呪を唱え)・意(イメージしたり集中したり)の三業を同時につかって複雑な「作業」をやるのは、集中力の訓練としては功徳(習熟度アップ)が見込める。

2011-06-28 23:47:52
@jiei_yushi

失礼します。精神集中(念)が善というのは何か出典がありますか?念は善に該当するのではないと習ったのですが…。RT:@maatakun 精神集中(善)を行えば行うほど精神集中の癖(功徳)が積もる。精神集中は雑念による悩みを制御する能力だから、善(悩み苦しみを解決する方向)である。

2011-06-29 01:56:32
けちゃっぷ @maatakun

@jiei_yushi 八正道の正念とか、戒・定・慧の三学というときの定とかは善行為にあたらないでしょうか?

2011-06-29 08:06:03
けちゃっぷ @maatakun

@jiei_yushi 「仏教では聖道に役立つものが善」と、とりあえず開けてみた『仏教要語の基礎知識』191ページにありました。仏教の修行は善だと、短絡的に理解しております。

2011-06-29 08:11:00
@jiei_yushi

@maatakun 倶舎論においても念は大地法に配され、唯識においても別境の心所に当り、これは受・想・思などと同じ扱いだったと思います。定(三摩地)も念と同様で、善悪という分類とはまた違うのではないかと思うのです。 

2011-06-29 09:22:38
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

@jiei_yushi @maatakun 横から失礼します。唯識だと念・定は仰るとおり別境ですが、受・想・思は五遍行なので、カテゴリが異なります。『成唯識論』などでは、別境の心所は善に偏って説明されますが、一応善・悪・無記に通ずるとされています。

2011-06-29 09:52:01
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

@jiei_yushi @maatakun 戒定慧の定と、別境の心所の定とはニュアンスが異なりますね。後者には日常でよくある「集中する」も含まれます(所謂「生得の散定」)。

2011-06-29 09:55:27
@jiei_yushi

そうですね。ありがとうございます。>受・想・思は五遍行なので、カテゴリが異なります@moroshigeki 横から失礼します。唯識だと念・定は仰るとおり別境ですが、受・想・思は五遍行なので、カテゴリが異なります。『成唯識論』などでは、別境の心所は善に偏って @maatakun

2011-06-29 10:14:51
@jiei_yushi

確かに両者の混同には注意すべきですね RT:@moroshigeki 戒定慧の定と、別境の心所の定とはニュアンスが異なりますね。後者には日常でよくある「集中する」も含まれます(所謂「生得の散定」)。@maatakun

2011-06-29 10:15:50
@jiei_yushi

@moroshigeki 乗りかかった船で、失礼を省みずお尋ね致しますが、心所における「念」は梵語のシュムリティ(巴:サティ)だと思いますが、一般的にどういう訳語が適するのでしょう?記憶/集中/気づき...中国の研究者からは「思考」というものまでありました。@maatakun

2011-06-29 10:19:08
@jiei_yushi

@moroshigeki memorization/concentration/awareness/thinking これらが、私が目にした「念」の訳語です。僧侶同士の意見交換のレベルなので出典はそれぞれ不明です。また最近のものでは釈一行師の「mindfulness」があります。

2011-06-29 10:22:38
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

@jiei_yushi @maatakun 私も勉強中ですので自信がないですが、『成唯識論』の定義は「以前認識した対象(曾習の境)を心に明記して忘れさせないのを本質とし、定(サマーディ)の前提となることをその働きとする」とありますから、「記憶」が近いと言えば近いですかね〜。

2011-06-29 10:35:31
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

@jiei_yushi concentrationとかmindfulnessとかの訳語が出てくるのは、八正道の「正念」に対する訳語なんでしょうね。想像ですけど。

2011-06-29 10:38:58
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

Twitterにアビダルマーはいないのかー。

2011-06-29 10:42:49
@jiei_yushi

@moroshigeki ズバリです。しかしここで重要なのは、心所の念と八正道の念とを区別していないようだ、ということです。言語はおそらくどちらもスムリティ/サティで、それを基点としてアビダルマが展開してきたので、語としては同一とみなしているのだと思っています(勝手な仮説)。

2011-06-29 10:43:46
仏教書速報 @buddha_books

うちの前の学長がそう(アビダルマー)ですが、Twitterはされてない様子。 QT @moroshigeki Twitterにアビダルマーはいないのかー。

2011-06-29 10:45:23
@jiei_yushi

@moroshigeki 因みに上座部は”awareness"。面白いのは、部派仏教の時点で心所の見解の差異が大きく見られたことだと思うのです。「念」が「念仏」に敷衍するのは危なっかしいですが、「念仏」の「念」が「気づき」だとしたら、これもまた面白いです。(これも勝手な想像)。

2011-06-29 10:51:55
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

@jiei_yushi 梵巴の用例をあまり知らないのですが、スムリティ/サティだけで「正念」を表すことって、そんなにないと思うんですけど、けっこうあるんですかね?

2011-06-29 10:54:18