ケルト文明について

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m-take @takeonomado

昨年末「ケルト発祥の地」として有名なハルシュタットを8年ぶりに訪問。紀元前1500年、ヨーロッパの青銅器時代から岩塩の採掘が行われた場所。ケルト人は塩という貨幣にも匹敵する貴重品で富を蓄え、鉄器という最先端技術も取り入れ、西へ南へと移動、拡大していった。これが100年来の定説。 pic.twitter.com/itutsNYAhw

2020-08-10 04:38:02
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その後、紀元前5世紀頃、ケルト文化の中心はスイス、ヌーシャテル湖北岸のラ・テーヌに移行、発展を続けるが、BC52年カエサル率いるローマ軍と衝突、敗れ、ガリア全域がローマ帝国に組み込まれ。さらにAD60年頃、ブリタニアではケルト女王ブドゥカの反乱が平定され帝国領へと。同じく100年来の定説。 pic.twitter.com/SlMhbSi9KW

2020-08-10 05:02:09
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ケルト人は文字を持たず勇敢だけど大酒飲みな野蛮人。彼らの文化はヘロドトス等ギリシャ人の歴史書、カエサルのガリア戦記などから一方的に知るだけ。(神官ドルイドは記録に文字を使っていた) なおハルシュタットとラ・テーヌの位置関係。 (by Dbachmann, CC BY-SA 3.0) pic.twitter.com/sTWojScxLB

2020-08-10 05:14:33
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その後、ケルト人はどんどんと西へ追いやられ、ウェールズからアイルランドに移住。ローマ化されずに生き残ったケルト文化の上に、独自のキリスト教文化が花開き、ヨーロッパ・キリスト教の根幹の一つとなる。これまた100年来の定説。(ケルズの書、トリニティカレッジ博物館) pic.twitter.com/5CNHl0GueK

2020-08-10 05:27:31
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m-take @takeonomado

100年来定説のケルト史を4ツイートという暴挙!そして今これら局所的には正しくとも、大きな流れは全く違う様相を顕して来ている。 自分の夢想する結論は以下の通り。 1.ケルト文化はギリシャ・エトルリアと同規模の文明だった。 2.ケルト文明はヨーロッパ文化の深い基底として今も存在する。

2020-08-10 05:47:54
m-take @takeonomado

ハルシュタットのケルト博物館、この説明文で軽く腰を抜かした。 「紀元前400年頃、ケルト人の侵入が始まります」えっ? 従来の「ハルシュタットはケルト人発祥の地」を軽く完全に否定してる。ここはイリュリア人の街だったという事ですね? pic.twitter.com/9Xh0j3mLU3

2020-08-10 05:55:07
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m-take @takeonomado

1953年、フランス片田舎のケルト人墳墓から1000リットル以上のワインが入る、高さ160cm以上の青銅器製の壺が見つかった。取手にはメドゥーサ、上にはアルカイックスマイルの女神、周りにはスパルタのヘルメットの戦士。後に紀元前530年頃、南イタリアのギリシャ植民市で製造された壺と判明。 pic.twitter.com/rsXAmRHnsw

2020-08-10 06:16:13
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m-take @takeonomado

ギリシャ植民市からの輸入品だけでなく、ケルト独自の驚異的なほど細密な金製品が、墳墓の女性(VIXの貴婦人と呼ばれる)の首に巻かれていた。ライオンの下の三重の波模様はそれぞれ2mmもない。最後のひらひらは0.3mm程度。裸眼で本当に彫れたのか? pic.twitter.com/iL1QxLZm0i

2020-08-10 06:26:52
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m-take @takeonomado

ラテーヌ文化って紀元前450年頃からでしたよね? その50〜100年前に、ラテーヌ文化に勝るとも劣らない、ケルト文化が存在していた。ケルト人が東から西へ移動したという説も、ラテーヌ文化をケルトの発展に物差しにする説も、成り立ちませんよね?

2020-08-10 06:34:16
m-take @takeonomado

VIXの貴婦人、その墳墓には、エトルリアのグリフォンの壺、バルト海からの琥珀、ギリシャからの陶器などが一緒に、整えて入れてあった。紀元前530年頃のケルト人は既に地中海とバルト海を結んで交易の中心にいたという事実。 Musée du Pays Châtillonnais goo.gl/maps/JNCm26Xju… pic.twitter.com/DJ43SxgIYp

2020-08-10 06:49:42
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m-take @takeonomado

紀元前530年、ローマはエトルリア人の王に支配されたままの小さな街。(共和政開始が紀元前503年)。エトルリア、ギリシャ、フェニキア、それぞれの都市国家が地中海の覇を競いながらも、経済発展が進んでいた時代。

2020-08-10 06:56:05
m-take @takeonomado

VIXの貴婦人(おそらく女王)はどんな「集落」に住んでいたのか?最近、発掘調査が進んで見えてきた姿は、素材は木材ながらも、もはや立派な城砦都市。 pic.twitter.com/xl2iIJlwXb

2020-08-10 07:02:57
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m-take @takeonomado

神殿と推定される建築物は、高さ20m、奥行き40m以上。 ガリア戦記の「大酒飲みの野蛮人」がいかに酷い偏見であった事か。しかも同時期のローマはエトルリア人の王に支配され、沼地だらけの貧相な都市。 pic.twitter.com/41cG5xNUNo

2020-08-10 07:09:54
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m-take @takeonomado

ちなみに、紀元前4世紀になってもローマはケルト人の敵では無かった。紀元前387年のアリアの戦いで主力軍団が壊滅し、ローマは半年以上にわたりケルト人の好き放題にされ、和解金でほとんどの金を持ち出される始末。

2020-08-10 07:14:19
m-take @takeonomado

この敗北は、ローマが軍団の構成、戦法などを一から見直し、その後の帝国への基礎を再構築するきっかけとなった。しかし、逆にケルト人がローマを殲滅させていた可能性も十分にあった訳で、そうならばローマ帝国は歴史に生まれていなかった。

2020-08-10 07:17:22
m-take @takeonomado

VIXの貴婦人が存在した城塞都市は正に紀元前6世紀の「都市国家」。そして、このような都市が既に幾つも発掘され、その王族の埋葬の方法や、副葬品は類似性が高い。 ホッホドルフの王子 en.wikipedia.org/wiki/Hochdorf_… ラボーの王子 archaeology-world.com/lavau-celtic-p…

2020-08-10 07:32:30
m-take @takeonomado

珈琲☕️タイム少々。 ここからがケルト文明への本題に入ります。 VIXの貴婦人よりも古い紀元前7世紀の大規模な都市遺跡、そしてさらにもっと驚くべき周辺遺跡が見つか里ました。個人的にはギョベクリテベと同じくらいの衝撃でした。(ニュースで見たのが今年の6月)

2020-08-10 07:48:19
m-take @takeonomado

まずはドナウ川源流の丘に築かれたHeuneburg。 紀元前15世紀の青銅器時代から城砦になり、ケルト人が都市として使い始めたのは紀元前7世紀からのようだ。(まだ遡るかもしれないが) 最初のはCGだが、現在、部分的に復元されて訪れる事ができる。 heuneburg-pyrene.de/en/celtic-city pic.twitter.com/e5G3IfE7a8

2020-08-10 08:21:13
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m-take @takeonomado

このような城塞を考古学では「oppidum」と呼んできたが、これはローマ人がケルト人などの都市を蔑んで、ラテン語の「町」と名付けた伝統による。しかし実際は十分に「都市国家」と考えられる。そもそも、ローマがケルトとパワーバランスが均衡したのは、紀元前4世紀の後半からだし。

2020-08-10 08:32:04
m-take @takeonomado

Heuneburgに関しては昨年くらいからアンテナを張ってたら、6月後半さらに驚きのニュースが飛び込んできた。発掘と調査を進めるにつれ、ここはケルト人の都市国家どころか「メトロポリス」であったという記事。(ドイツ語すまん) spektrum.de/news/die-kelte…

2020-08-10 08:42:14
m-take @takeonomado

当初は5千人とか推定された、Heuneburgという「Oppidum」は実は2万〜3万人という当時としては十分な「都市国家」であることが分かってきた。さらに記事に出てたAlte Burgというキーワードで探しまくったら〜このYouTubeは見てね! youtu.be/Ydp2eY9TkHI pic.twitter.com/76AiRDMjQd

2020-08-10 08:54:05
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m-take @takeonomado

このAlte Burgは周辺ケルト人の都市国家(ローマ人は後に蔑んでOppidum=ラテン語の「町」と呼ぶが)が共同で集まって祭事を行ったのは確実。ひょっとしたらベンハーのような馬車競争をしたかも知れない。ギリシャでいうデルファイのような位置づけであった可能性が高い。

2020-08-10 08:59:26
m-take @takeonomado

「VIXの貴婦人」の墳墓を思い出そう。ギリシャやエトルリアからの装飾品が多数あり、巨大な壺に入ったワインはギリシャの陶器で皆に飲み回された。やりとりされたのは物だけだろうか? いや、当時のケルト人たちは、ギリシャやエトルリアの政治体制などにも十分な知識があったはず。

2020-08-10 09:04:39
m-take @takeonomado

エトルリア文明がローマ文明の母体なのは考古学上の事実。ローマ建国神話(BC753年)から共和政開始(BC503年)までローマはエトルリア人のものだったと言えるほど。現在エトルリア語は(進んではいるが)完全に解読されていない。自分達の出自を隠したいローマ人たちが焚書したと思っている。

2020-08-10 09:12:09
m-take @takeonomado

ケルト文明も言語と神話(宗教)(と技術)を共有した都市国家の集合体であった。それはギリシャやエトルリアと何ら変わらない「文明の形」であったのだ。Alte Burgはデルファイであり、Heuneburgはアテネであった。

2020-08-10 09:26:48