【副島本】信長という日本民族の真の覇気のある英雄を殺せたのは、世界を支配征服するほどの力を当時、握っていたスペイン帝国(フェリペ2世による世界覇権の完成。1571年レパントの海戦でのイスラム軍への勝利)と、
2015-12-29 00:52:21【副島本】最近、「四国攻め説」の証拠となる史料が出た、という新聞記事が出た。(中略)これには大したことは書かれていない。四国攻め阻止説の理由にはならない。すべてはイエズス会のバテレンたちによる信長殺しを、今の今でもなおはぐらかして覆い隠そうとする人々による隠蔽工作だ。(p145)
2015-12-28 16:40:46【副島本】日本史の史料は公開されているものは、大抵はこの『群書類従』の中にあるようだ。私は、知人の日本史学者の書斎で、この『群書類従』や『国史大系』の全巻がズラリと並んでいるのを見ることができる。
2015-12-28 16:56:00【副島本】明智本が変(6月2日)から山崎の合戦(6月13日)の前日までの「書き直される前の、元の」吉田兼見の日記に着目したことは慧眼である。(中略)ここでの兼見日記についての改作、削除の記述は、私たち歴史本読者にとって、真に迫ったものである。
2015-12-28 17:02:36【副島本】戦国時代が専門の歴史学者たちは「私たちは、(文献史料の)このことは昔から知っていた」と居直るだろう。もしそうだとすると日本の歴史学者たちまでが、信長殺しの真実の覆い隠しの共犯者だ、ということになる。(p160~161)
2015-12-28 17:02:44【副島本】3日後の6月5日になってようやく光秀は安土城を制圧(入城)した。信長の留守居番(蒲生賢秀)たちは不思議なことに光秀に屈服した。(p162)
2015-12-29 00:52:50【副島本】変のあと、2年間、玉(ガラシャ)は山深く隠棲していたようだ。このあと藤孝・忠興親子から嘆願を受けて、家康が間に入って、秀吉にとりなした。
2015-12-29 00:53:11【副島本】それで玉は処刑されることなく許されて、大坂城下の忠興の屋敷に戻っている。謀反人の光秀の娘であるのに処罰されていない。確かに少し変である。(p167)
2015-12-29 00:53:21【副島本】藤孝(幽斎)の嫁、細川ガラシャが洗礼を受けて「ガラシャ」と名乗ったのは、1587(天正15)年(24歳)だ。忠興と結婚して10年ぐらい経っている。秀吉が天下人の時だ。だがキリシタンになったのはもっと早いだろう。(p173)
2015-12-28 17:20:33出だしのひどい間違いは置いといて、洗礼を受けてないのにキリシタンというのは、どういう意味なのだろうか? 心の中で思った時からキリシタン?
2015-12-28 17:21:46【副島本】清正は、秀吉の死後、石田三成とぶつかり、彼を殺そうとまでした。秀吉の“股肱の臣”たちの中の筆頭であり、秀吉なきあと(1598年9月死去)の内紛の中で反石田三成派の筆頭である。
2015-12-29 00:53:55【副島本】だが清正は、1600年の関ヶ原合戦には参加していない。肥後(熊本)から動かなかった。これで家康が清正をずっと気に入らなかった。だから清正が死んだあとは、息子貞泰が上手に跡を継ぐことができなかった。
2015-12-29 00:54:35【副島本】(中略)同じく池田恒興と長男光政が長久手の戦(1584年)で戦死したので、光政が、備前岡山藩主になった。(p174~175)
2015-12-29 00:54:43【副島本】八切本に従うと、どうやら、春日局は、後水尾天皇に向かって、「私の父の斎藤利三と、明智光秀に正一位の位を授けなさい」と要求したらしいのだ。(p186)
2015-12-29 00:55:29【副島本】信長軍は、間道伝いに義元の本陣そばまで接近した。信長の忍者(細作、物見)が周到に道案内した。蜂須賀小六と前野将右衛門と簗田弥次右衛門たちだ。現地に行ってみて分かった。(p200)
2015-12-29 00:55:46【副島本】三方原で負けて、家康は浜松城に逃げ帰って堅い守りをして守り切った、と今も書かれている。ウソである。信玄軍は浜松城も攻め落として徳川勢を皆殺しにしている。信玄の甲州軍勢は、ムカデ、ジグモ軍団と呼ばれた恐ろしく残忍な軍隊だった。(p212)
2015-12-29 00:56:15【副島本】信玄軍は浜名湖の北の三ケ日で野営をして年を越した。そのまま京都を目指していた。この武田軍の陣営のなかに、潜り込んだ信長の忍者(ラッパ、スッパ)が信玄を毒殺している。(p216)
2015-12-29 00:56:25【副島本】信長は信玄を殺した5年後には、さらにもうひとりの強敵、越後(新潟県)の上杉謙信(長尾景虎。関東管領上杉家の家督を継いで上杉を名乗った)をもコロリと死なせている(1578年3月。越後の春日山城で)。
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