『信長は(以下略)』本文抜粋

ツッコミは途中で諦めました。
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のいまご @noimago

【副島本】薩摩の島津氏も、豊後(大分県)の大友義鎮(宗麟)も受洗してキリシタンになった。(p106)

2015-12-28 00:43:03
のいまご @noimago

【副島本】マジで!?www

2015-12-28 00:43:12
のいまご @noimago

【副島本】1560(永禄3)年3月。ザビエルの後任のガスパル・ビレラが、義輝に謁見して許可を得た。桶狭間の戦いは、この3ヶ月後の6月19日である。この義輝将軍の横に細川藤孝は仕えていた、と前述した。おそらく細川藤孝も秘かにキリシタンになったはずなのだ。(p108)

2015-12-28 00:46:14
のいまご @noimago

【副島本】マジで!?www(もう、これ以外に何をコメントしろと)

2015-12-28 00:46:47
のいまご @noimago

桶狭間の戦いの日にちが違うのは、あまりにも低レベルなので、突っ込みませんでしたw

2015-12-28 00:47:47
のいまご @noimago

【副島本】細川藤孝は、細川管領家に養子として入り込んだ男である。彼の実父は三淵晴員という男だ。三淵家というのは、どういう家柄なのか調べたが分からない。丹波の小さな城の城主である。

2015-12-29 00:47:45
のいまご @noimago

【副島本】藤孝は、細川元常の養子になった。この元常が細川管領家の中で守護職のひとりという立場にあった以外は分からない。(p110)

2015-12-29 00:47:53
のいまご @noimago

【副島本】藤孝と光秀は、生来の教養人であり漢文(漢籍)が読めて立派な漢文を書けた人だ。教養人に対して、ひらがなしか書けない信長たち戦国大名の劣等感はすごいものだったろう。(p111)

2015-12-29 00:48:07
のいまご @noimago

【副島本】刈屋城主だった水野忠重は忍者である。(p120)

2015-12-29 00:48:31
のいまご @noimago

【副島本】信元は、1576年(信長と家康の軍は三河の北の長篠で武田信玄を破った翌年)に、信長と家康の両方から嫌われて殺されている。(中略)きっと水野信元の方が、すり替わった家康(世良田元信)よりも格が上の信長の忍者部隊の隊長だったのだ。(p120)

2015-12-29 00:48:51
のいまご @noimago

【副島本】この忠邦が任命した大目付の鳥居忠耀(耀蔵)が、いかにも公儀隠密の元締め、即ち徳川忍者の頭目である。その配下に間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬、最上徳内、高田屋嘉兵衛たちがいた。全て幕府隠密(忍者)である。(p121)

2015-12-29 00:49:12
のいまご @noimago

【副島本】水野忠重は、6月10日には、再び京都に走った。そして今度は、光秀の軍の中に入った。(中略)水野忠重は、6月19日に再び家康の陣に帰ってきている。おそらくこの時、忠重は(死んだはずの)光秀を連れて来たのだ。(p121~122)

2015-12-29 00:49:36
のいまご @noimago

【副島本】やはりルイス・フロイスたちが、「信長は家康を殺そうとしていた」説を広めた元凶なのだ。自分たちバテレンが真犯人であることを気づかれないようにするために、マニューバー(謀略)の宣伝として、このような考えを当時の京都に振り撒いたのだ。

2015-12-29 00:49:52
のいまご @noimago

【副島本】この兵卒(足軽)本城惣右衛門も、おそらくキリシタンだったと思う。だから、この謀略宣伝に加担したのだ。(p131)

2015-12-29 00:50:00
のいまご @noimago

【副島本】変があった6月2日の夜のうちに、信長の死を知って秀吉は自分と周りの者だけで備中高松城への包囲陣からさっさと抜け出して、もぬけの殻にしただろう。だから6月5日には、嵐の中を大坂の尼崎城に着いている。(p132)

2015-12-29 00:50:15
のいまご @noimago

【副島本】歴史の真実はそんなキレイごとではない。本当は、和平(和睦)の仲介役の安国寺恵瓊が、清水宗治を城の中で斬り殺したのだ。(p133)

2015-12-29 00:50:26
のいまご @noimago

【副島本】怪僧天海(1536~1643)は107歳まで生きたとされる。当時はありえないことだ。ということは天海の後ろ半分の人生は息子の光慶が演じたのではなかろうか。天海はヴェールのようなものを、いつも被っていて顔を人に見せなかったという。恐ろしい話である。(p134~135)

2015-12-29 00:50:40
のいまご @noimago

【副島本】大和郡山城主(奈良県)であった筒井順慶はキリシタン大名であるが、必ずしも高山右近たちと考えを同じくしていない。(p137)

2015-12-28 16:17:06
のいまご @noimago

【副島本】この愛宕山の連歌の会もただの風流(人)の集まりではない。信長から「急いで備中の秀吉を援軍に行け」と命令されていた光秀が、そんな悠長なことをしている暇はない。この連歌の会は戦争をするための資金を調達するために行われたものなのだ。

2015-12-29 00:51:06
のいまご @noimago

【副島本】八切本(P152)にはっきりと書いている。この記述を無視する者たちは、以後、低能扱いされるだろう。 (※ここから八切本の引用) 愛宕権現というのは、細川幽斎の娘の伊也を再嫁させた今日の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にも当たる神社なのである。(p140)

2015-12-29 00:51:18
のいまご @noimago

ちょっとあまりにもおもしろい記述があったから書くわw

2015-12-28 16:16:44
のいまご @noimago

【副島本】私たち普通の歴史本読み(好き)たちは、史料(歴史文献)にいちいち当たることなどできない。そんな人生時間はない。古文書のあんな古文など読めるわけがない。自分が稼いで生きてゆくことだけで精一杯だ。だからすぐに騙される。(p142)

2015-12-28 16:27:07
のいまご @noimago

だから八切本に騙されてこんな内容になるのかwww

2015-12-28 16:27:38
のいまご @noimago

ちなみに、先ほどの文章はこう続く。 だからこそ何が(より)真実であるのか、の歴史の真贋判定は厳しくやってもらわないと困る。 …自分で考える気が無いんですよ、この著者www

2015-12-28 16:34:26
のいまご @noimago

【副島本】なぜなら、信長を殺したのはローマ・カトリック教会(イエズス会)のバテレンたちであり、光秀や高山右近、細川藤孝たち(隠れ)キリシタン大名たちはこの犯行への加担者、追随者だったのだ。主犯人ではない。明智光秀ごときに信長を殺す力はない。

2015-12-29 00:51:35
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