インターネットや即売会といった発表の場の多様化、アプリケーションや印刷・編集技術による表現の容易さによって、既存の作品を流用したマッド作品や同人誌の流通が増大し、多くの観客の心をつかむことに成功しました。
これも状況次第ではありますが、多くは、
「広告効果」
「ファン同士の交流」
「セミプロの育成の場」
という三つの点で、多少なりとも業界に貢献しているとみなされる限り、原作サイドから黙認されるか、むしろ喜ばれる傾向にあります。
ですが、そもそもなぜそうなったかと言えば、単にインターネットや同人誌といったものに関する法制度が、空白だらけだったからでしょう。
いわば、だだっ広い草原を、みながめいめいに動き回り、家を建てたり、車を走らせたりしている状態で、どうしようもなかった、というのが現実だと考えます。
いずれ衝突事故の多い場所から「交通整理」が行われてゆくでしょうが、まだしばらくは、「抜け道だらけの巨大な空き地」とみなすしかありません。
そして、あまりにその空き地が広々としているものだから、「空き地の外」までもが、同じような状態である、と信じてしまう傾向が生じるようになったのではないでしょうか。''
今この時代、プロになるとは、まずそうした「空き地」を棄てることを意味するようになってきていると感じます。
「空き地」を出て、新たに入るのは、建設に建設が重ねられた、より巨大な場です。
過去何十年もの間、とてつもない数の人々が、本当に信じがたい努力を費やして築いてきた場所です。
しかも、様々な条件に従って、はじめて参入できるそこは、厳しく、複雑で、報われることが少なく、理不尽な戦いを永遠に続けねばならない場です。
もちろん、そこでしか得られない、素晴らしい喜びと学びに満ちていることも確かです。しかしプロになってのち喜びと学びを享受できるかどうかは、誰にもわかりません。
他方、「空き地」は、今後ますます、豊かで、面白く、刺激のある場になるでしょう。
ときに自分を育て、鼓舞し、癒してくれる大切な場になるに違いありません。
万人に解放されており、いつでも自分に共感してくれる誰かがいて、自分が好きなものに没頭できます。自分が何かを作るための材料も手段も惜しみなく与えられ、アイディアを実行に移すことを止められたり、実現を妨げられたり、様々に条件を課されることなど、ほとんどありません。
黙って座っていても、次々にどこかで生まれた斬新なアイディアを受け取れるし、誰かが作ってくれた何かを好きなだけ享受できます。
どんなものに対しても、共感するかどうか気ままに決められ、どんな野放図な考えを抱いてもよく、思いついたこと全て、いつだって好きなように発表できます。
本当に、誰にとっても生き甲斐となれるような、素晴らしい、愛しい場所です。
だからこそ、そこで学んだ自由さが、絶対的な基準になってしまうことがあるのでしょう。
さて。
その愛しい場所を去れますか?
豊かな空き地で充実していられた日々の一切合切をなげうち、自由を背後に置き去りにして二度とかえりみず、ただ愚直に、約束されない喜びと学びを求めて、孤独な不自由の道を、選んで歩み続けることができますか?
冲方丁のブログより一部転載。
http://towubukata.blogspot.com/2011/07/blog-post.html






















