平林久和自伝ツイート

HisakazuHが送る自伝ツイート
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平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

この名前が気に入り、以来、自分の肩書きとして使わせていただくことになる。

2011-07-17 15:43:20
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

芦崎治さんという人は丹念に取材をする人で、わずか800字程度のコラムなのに、私は1週間密着取材された。打ち合わせの場面でも、先方の了解が得られれば同席する。さらに私は何度もインタビューを受ける。そして記事ができ、つけられた職業名が「ゲームアナリスト」だった。

2011-07-17 15:42:33
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

変わった職業の人を紹介する欄だった。なるほど、ゲーム業界の解説屋というのは変わった職業だ。私が登場する数号前には50歳代のストリッパーが登場していた。

2011-07-17 15:42:01
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

堀井雄二さんの大学時代の友人で芦崎治さんというジャーナリストがいる。氏は雑誌「AERA」で私を取材したいと言う。堀井さんからのご紹介ということもあり、もちろん快諾した。「AERA」には現代の肖像という成功者のドキュメンタリーのコーナーがあるが、私が登場したのは別のコーナーだった。

2011-07-17 15:41:25
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

平林は独立して、こんな仕事をしていることが、堀井雄二さんに伝わった。ゲーム業界の解説をする商売をしている、ということが。

2011-07-17 15:40:56
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

当時はゲーム業界のことを解説した文献などない。そこで業界のことを知りたい人は、私のオフィスを訪ねてくれるようになった。お会いして説明する場合もあれば、社内で解説できるようレポートを執筆することもあった。

2011-07-17 15:40:25
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

人材派遣会社も、不動産会社も「うちもゲームソフトを発売したい」と考えていた。ゲーム専門誌ではない一般誌も、ゲームの紹介コーナーをつくるようになった。予測通り、ソニーをはじめとする大手家電メーカーが業界構造を研究しはじめた時期でもあった。

2011-07-17 15:39:48
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

「他業界」とのインターラクティブな交流についてである。会社設立年の1991年は異業種企業がゲーム業界に関心を持ちはじめる時期と重なった。

2011-07-17 15:39:16
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

創業一期目にして、もらった手形が不渡りになるなど、苦しいこともあったが、わけのわからない28歳の小僧を周囲の人たちは、独立しても殺すまい……と手助けしてくれた。

2011-07-17 15:38:36
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

皆が助けてくれた。何か物を書く仕事があれば、すぐに発注してくれた。ある会社の役員は、即決で「家賃の半額くらいは顧問料で面倒見てやる」と言ってくれた。

2011-07-17 15:38:02
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

社名は株式会社インターラクト。どんな仕事でも受注できるように「句読点の置き場所から、企業戦略まで考えます」という案内書を持って、おつきあいのあった各社を回った。

2011-07-17 15:37:26
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

1991年、会社設立の準備に入った。といっても何をするのか、業務内容さえ決まっていない。ただコンセプトらしきものはあった。「ゲーム業界」と「他業種」、「文系人間」と「理科系人間」、「経営者」と「開発者」がインターラクティブな交流を持ってもらうための存在になる。

2011-07-17 15:36:45
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

ありがたいことだが、私は自身が創刊にかかわった雑誌には最大限の忠誠心があった。しかし、会社には同等の忠誠心を持てなかった。退社、独立を決心したのは1990年末のことである。

2011-07-17 15:35:56
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

自分で言うのも気が引けるが、社長は私の力量を評価してくれていた。その私がゲーム専門誌編集部にいつまでも置いておくのが、もったいないと考えていた。

2011-07-17 15:35:36
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

時代は日本がバブル景気に湧いていたころである。1990年、私は社長から部署の異動を命じられた。社長は映画産業の進出を考えていた。そのプロジェクトの一員となって、広報プランを考えるミッションが与えられた。

2011-07-17 15:34:50
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

その業界の専門誌の中味と質は、業界の評価と比例すると考え、平日の平均睡眠時間2~3時間の暮らしをしていた。

2011-07-17 15:34:24
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

だから私は、当時のゲーム専門誌の攻略法・裏ワザ紹介・新作紹介のフォーマットから、はずれることばかり考えていた。ゲームを小説にしたり、ゲーム会社の産業ニュースコーナーをつくったり、子どもが読む雑誌なのに上場企業の株価欄までつくったりもした。

2011-07-17 15:33:47
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

もうひとつの怪物は、ゲームへの社会的偏見だった。総合芸術(に発展する可能性がある)のに、人はそれをわかってくれない。ブームではなく巨大産業(に発展する可能性がある)のに、人はそれをわかってくれない。

2011-07-17 15:33:23
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

当時の生活は異常だった。朝、目が覚めたら『ゴッドファーザー』。夜寝る前にも『ゴッドファーザー』。休日も時間があれば『ゴッドファーザー』。自分で自分を洗脳しようとした。我が名、「久和」は私の人生に立ちはだかる怪物だった。

2011-07-17 15:32:48
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私は「久和」を捨てようとした。やはり父の子。戦う男になろうとした。そして、父が好きだった映画、その名も『ゴッドファーザー』を何度も見て、自分の中の戦闘意欲をかきたてる努力をした。

2011-07-17 15:32:18
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

どちらのいい分が正しいのか、じっくりと聞いて、判断して、最後はどちらかに寄って立つ。そして、一方とは喧嘩をする。久しい和などといっている場合ではない。取材先とは情報を出す、出さない。そんな板挟みが、毎日続く。

2011-07-17 15:31:32
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

出版社の雑誌編集者というのは、いつも中間に立つ。たとえば、印刷所は「今日中に原稿をください」と言う。筆者は「2日待ってくれ」と言う。そこで間をとって、「では1日後に」ですまないのが編集者の仕事だ。

2011-07-17 15:30:42
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私はその後、よく働いた。それは労働時間が長さのみならず、巨大な怪物との戦いでもあった。私の名前は「久和」。久しく、和を重んじなさいという両親の意図が込められている。しかし、仕事を覚えていくうちに、「久和」……「和」だけでは質の高い仕事ができないことに気づく。

2011-07-17 15:30:04
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

父はきっと告げたかったのだ。自分の死と同じ日に生まれた雑誌を大切にしろと。今の仕事を迷わずにやれと。父は命を賭して、ダメ息子に、強烈な教訓を残したのではないか。

2011-07-17 15:29:20
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私は必死に「運命」を解釈をしようとした。とても偶然ではすまされないふたつの出来事について。とりあえず、つかむことができた「解釈」はこうだ。

2011-07-17 15:28:50
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