前衛芸術批判

2
John @HOMO_RELIGIOSUS

Deconstructionは重要だと思うけどこの"黒の正方形"みたいなのにはなりたくないし、有名なデュシャンの"泉"とかは芸術とすら言えない部類だと思う。 pic.twitter.com/aLAJtRxW2Z

2021-02-23 03:35:24
拡大
John @HOMO_RELIGIOSUS

俺はその意味では"ナチス性"を徹底するぞ。 無意識の前衛や規範の放棄という潮流の中にも"建前"という美意識はあるべきだろう。 だから、印象派やアールヌーボーは好きだけども、行き過ぎた前衛芸術(芸術ではない)は絶対に認めない。 twitter.com/ririxx0101/sta…

2021-02-23 03:37:59
John @HOMO_RELIGIOSUS

少なくとも規範が完全に放棄された外部の文明から見たとき、それが不完全な形であったとしても美意識を感じさせる形式は建前として整えるのが礼儀ではないか? twitter.com/ririxx0101/sta…

2021-02-23 03:40:43
John @HOMO_RELIGIOSUS

デュシャンは、ラスコーの壁画以前に退化してしまったのだ。 少なくとも、自分はラスコーの壁画に美意識や美意識に対する謹しみというものを感じるが、デュシャンの創作物には何も感じない。 この壁画に糞尿をかけることは到底できないがデュシャンの泉にはできるだろう。 pic.twitter.com/o3qSHobNhp

2021-02-23 03:44:13
拡大
John @HOMO_RELIGIOSUS

少なくとも哲学的に、脱構築には中立一元論的な構造を見出すことはできる。 脱構築は"Constructureの批判というDe-constructure"であって、"Non-structure"ではない。 それは弁証によって人間の認識の根源を突き詰めた結果の形式であって、単純な形式の放棄とは似て非なるものだ。

2021-02-23 03:54:44
John @HOMO_RELIGIOSUS

なぜなら脱構築は、脱構築を理解し得る言語形式を要求するからだ。 一度言語を放棄すれば、他者性は放棄される。 他者性を放棄した主体は即ち自然でしかなく、"主体"であることが原理的にできなくなる。

2021-02-23 03:57:11
John @HOMO_RELIGIOSUS

故にこれは形式としての提唱を不可能とする単なる背景、自然、生活の一端でしかないのだ。 pic.twitter.com/SYdcK1HIxH

2021-02-23 03:59:13
拡大
John @HOMO_RELIGIOSUS

ちなみに、他者を封じる暴力的根拠は一切ない。 そもそも、述語という"断言"は還元可能な根拠の一切ない暴力の形式だからだ。 つまり人類は、詩によって暴力を振るう必然性を持ち合わせるのである。 俺はナチスであり、ナチスとしてデュシャンを弾圧する。

2021-02-23 04:05:13
John @HOMO_RELIGIOSUS

ファシストが反省と暴力を持って死ぬまで行進し続ける中、前衛芸術達は撓となって腐り落ちる果実として敗北し続ける。 ファシストはその果実を喰らう者として常に前進し続けるのである。

2021-02-23 04:25:47