2021.02.28「NHK大河ドラマ 青天を衝け」(3)「栄一、仕事始め」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

阿部正弘は、安政4年(1857)6月17日に老中在任のまま急死したため、その推挙を受けて老中首座となり、外国掛老中を兼ねていた堀田正睦(1810~64)が後継者となった。その堀田を待ち構えていたのは、通商条約問題であった。ドラマでは、まだまだ先の話であるが。#青天を衝け

2021-02-28 21:00:08
町田 明広 @machi82175302

さて、主人公の渋沢栄一に話を切り替えよう。嘉永6年(1853)、渋沢が13歳の時にペリー来航に遭遇する。大いに刺激を受けた結果、攘夷の念の萌芽があったと後日、渋沢自身は語っている。(『渋沢栄一伝記資料』綱文)#青天を衝け

2021-02-28 21:01:10
町田 明広 @machi82175302

しかし、ペリー来航当時の渋沢栄一の心情を直接伝える史料は存在しないため、渋沢がその瞬間に何を考えたのかは不分明である。とは言え、その後の渋沢の行動を鑑みるに、「尊王攘夷」に目覚めたことは間違いないと考える。#青天を衝け

2021-02-28 21:01:32
町田 明広 @machi82175302

安政元年(1854)から2年にかけて、渋沢栄一が13、14歳頃までは、連日にわたって読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であった。この頃からは家業を手伝い始め、近隣村々を廻り藍菓の買い付けも1人で行っていた。#青天を衝け

2021-02-28 21:01:55
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、藍葉を藍玉にして取引先の紺屋に値段を決めずに先に送付した。そして、紺屋が使用した分だけの代金を徴収するために出張し、次の注文の確認をした。春・秋は様子を見に出かけ、正月(1月)・盆(8月)にはは集金に出かけるなど、年に4回は得意先を訪問していた。#青天を衝け

2021-02-28 21:02:15
町田 明広 @machi82175302

安政4年(1857)頃、17歳頃から信州・上州・武州秩父にある得意先廻りを1人で担当した。家業に対する熱意も沸き、当時の特産地・阿波の藍に負けないものを作りたいと近隣村々から藍菓を買い集め、作った人々を招待して番付を作成した。#青天を衝け

2021-02-28 21:02:31
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。競争意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励しており、渋沢の異能を物語るエピソードとして有名な話かも知れない。このあたりは次週か?#青天を衝け

2021-02-28 21:02:42
町田 明広 @machi82175302

いよいよ平岡円四郎【生年:文政5.10.7(1822.11.20) 没年:元治1.6.16(1864.7.19)】が登場。簡単にどのような人物かを「朝日日本歴史人物事典」を基に紹介。平岡は、幕末の幕臣。嘉永6(1853)年12月、川路聖謨と藤田東湖に推され、一橋家小姓となり徳川(一橋)慶喜に近侍するようになった。#青天を衝け

2021-02-28 21:04:51
町田 明広 @machi82175302

平岡円四郎は、将軍継嗣問題では慶喜擁立を工作、安政の大獄で差控、甲府勝手小普請に左遷された。しかし、慶喜の将軍後見職就任に伴い、文久3年(1863)一橋家用人となり上洛。翌元治元年(1864)年5月15日、一橋家家老となる。#青天を衝け

2021-02-28 21:05:21
町田 明広 @machi82175302

平岡円四郎は「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川(嘉兵衛)に在り」と評される。奸臣とみなされ元治元年、水戸藩士の手にかかり殺害された。渋沢栄一は平岡なくして、慶喜への仕官はあり得なかった。#青天を衝け

2021-02-28 21:05:58
町田 明広 @machi82175302

本日は徳川慶喜ネタがなく、すいません💦  草彅くん、慶喜のクールな「素気なさ」をうまく演じられていました。ドラマでも触れられていましたが、将軍継嗣問題が出てきました。今回はこのあたりがじっくり描かれそうで、期待大です(^^)#青天を衝け

2021-02-28 21:07:06
町田 明広 @machi82175302

今回から松平春嶽が登場!かっこよかった(^^) 確実に、次週から橋本左内も登場!!私の周辺でもざわめきが🎊 左内は書いてみたい伝記候補の一人です!#青天を衝け

2021-02-28 21:08:09
町田 明広 @machi82175302

ここからは水戸学について述べていこう。水戸学とは、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業が継続される中で、藩内で醸成された学問のことである。その目的は、過去の日本の歴史を朱子学的大義名分から明らかにすることにあった。#青天を衝け

2021-02-28 21:09:24
町田 明広 @machi82175302

水戸学は、前期と後期に区分されている。18世紀初めまで、『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだのが前期である。そして、第九代藩主の徳川斉昭の治世である18世紀末期から幕末にかけて、編纂事業は継続しつつ、政治的課題の解決にも目を向けたのが後期である。#青天を衝け

2021-02-28 21:09:39
町田 明広 @machi82175302

その舞台となったのが、斉昭が設置した藩校の弘道館であった。なお、水戸学が他藩の武士から注目されるようになったのは天保年間(1830〜44)以降であり、当時は「天保学」「水府の学」と呼称された。水戸学と言われるようになったのは、実は明治以後である #青天を衝け

2021-02-28 21:10:52
町田 明広 @machi82175302

現在では前期・後期を含めて「水戸学」とされる。後期水戸学は、藤田幽谷(1774~1826)、その門人・会沢正志斎(1782~1863)、幽谷の実子であり門人でもある藤田東湖(1806~55)という系譜を持つ。私はこの3人を「水戸学の三傑」と名付けた。#青天を衝け

2021-02-28 21:11:11
町田 明広 @machi82175302

藤田幽谷の没年は幕末期の直前、ペリー来航までまだ30年近くある文政9年で、幕末を生きたわけではない。しかし、後期水戸学を思想的に基礎付け、水戸藩内に根付かせた功績は、後期水戸学の祖と呼ぶにふさわしい。#青天を衝け

2021-02-28 21:12:01
町田 明広 @machi82175302

会沢は幽谷の思想を受け継ぎ、その内容を包括的かつ体系的に表現し、藩内だけに止まらず後期水戸学の存在を広く世に知らしめた。東湖は後期水戸学の思想を様々な詩や文章にして社会に喧伝し続けた。その著述は極めて情熱的で、日本中の若年武士層に感嘆をもって受け入れられ深く浸透した。#青天を衝け

2021-02-28 21:12:45
町田 明広 @machi82175302

東湖は徳川斉昭の補佐役として政治の世界でも活躍し、後期水戸学の思想を政治の実践の場面で活用した。東湖の活躍によって、水戸は後期水戸学の聖地となり、全国に勃興する尊王志士のコミュニケーションの中枢的役割を果たしたが、その中心にいたのが東湖であった。#青天を衝け

2021-02-28 21:13:17
町田 明広 @machi82175302

後期水戸学は、江戸時代の諸思想・学問を整理統合したところに大きな特色がある。幕府が封建社会を維持するために重視した朱子学をベースにし、上下の身分秩序を重んじて、礼節を尊ぶ精神を引き継いだ。また、経世論も取り入れ、政治・経済・農業・国防などを論じた。#青天を衝け

2021-02-28 21:15:17
町田 明広 @machi82175302

特に国防論を重視し、鎖国論を堅持して攘夷を声高に主張し始めた。加えて、平田国学を受け入れて、東アジア的華夷思想の中心に天皇を据え、尊王論の勃興を促したのだ。ナショナリズムの全国への浸透は、こうした後期水戸学によってもたらされたと言えよう。#青天を衝け

2021-02-28 21:15:51
町田 明広 @machi82175302

後期水戸学の理解者であり体現者である斉昭について、ここでも触れておこう。斉昭は、最後の将軍・慶喜の実父として有名であり、烈公と称されるほど劇烈な性格で、ジェットコースターのような浮き沈みの激しい生涯を送った。会沢正志斎・藤田東湖などをブレーンとして藩政改革に臨んだ。#青天を衝け

2021-02-28 21:16:54
町田 明広 @machi82175302

斉昭は西洋式軍備を導入し、民政を重視して藩財政基盤の再建に努め、藩校弘道館を興して藩の文武を奨励した。また、ペリー来航後は海防参与として幕政にも関与したが、将軍継嗣問題などで大老井伊直弼と対立し、失脚して死ぬまで蟄居強いられた。#青天を衝け

2021-02-28 21:17:13
町田 明広 @machi82175302

斉昭は、有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚し、また、姉の鄰姫が朝廷随一の権力者、関白鷹司政通に嫁いでいたため、朝廷との強いパイプを有していた。とりわけ、政通に対して、幕府の内部事情や対外情勢を詳細に報告しており、これが孝明天皇の判断に多大な影響を与えた。#青天を衝け

2021-02-28 21:17:50
町田 明広 @machi82175302

斉昭は天保10年(1839)には幕府に対しても、改革を求めるために『戊戌封事 』を12代将軍徳川家慶に建言した。この中で、内外の問題を「内憂外患」(内憂とは国内の憂い、外患とは対外的な危機)という言葉で表現した。#青天を衝け

2021-02-28 21:18:25