2021.03.14 青天を衝け(5)「栄一、揺れる」放送後の町田明広先生による解説ツイート

12
町田 明広 @machi82175302

本日は「青天を衝け」5回目です。早いもので、放送開始1ヶ月ですね‼️ 今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください😃 なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け

2021-03-14 17:18:47
町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」5回目を拝見!姉なかの破談をモチーフに、当時の迷信に対する庶民感情を紹介し、それに動じない渋沢の合理性、先進性を示し、将来を予感させる巧みな構成でした。安政の東海と江戸地震が描かれ、藤田東湖が最後となりましたが、今後の水戸藩の迷走からも目が離せませんね。#青天を衝け

2021-03-14 20:45:02
町田 明広 @machi82175302

「こんばんは」を省いた徳川家康公、現在の教科書から「士農工商」が消えたと発言された。このあたり、こんな情報を入れてくるとは、なかなかできない芸当と感心仕切り。#青天を衝け

2021-03-14 20:46:23
町田 明広 @machi82175302

早野恵著の『清英近世談』(1850年)について、ペリー来航までの10年間、日本では清英関係やアヘン戦争に関する著書が流行しており、他にも斎藤馨著の『鴉片始末』(1843年)、坂厚雄著の『阿片乱記』(1854年)、塩谷宕陰著の『阿芙蓉彙聞』(1847年)等の書物が刊行された。#青天を衝け

2021-03-14 20:47:16
町田 明広 @machi82175302

渋沢はペリー来航後、このタイミングで『清英近世談』を読み始め、欧米に対する認識の起点となったようだ。この『清英近世談』前篇5巻は、20枚ほどの画像と地図のイラストを付けた、アヘン戦争の経緯を詳細に再現した本であり、ビジュアル的にも想像力をかき立てる内容であった。#青天を衝け

2021-03-14 20:47:51
町田 明広 @machi82175302

アヘン戦争当時、イギリスは主に帆柱が 3 本立てであるフリゲート艦を主力軍艦とし、黒船のような武装汽船は数隻しか使用していなかったとされている。一方で、『近世談』に描かれたイギリス軍と清国軍の戦いは非常に激しいもので、行間にイギリスに対する敵愾心を読み取ることができた。#青天を衝け

2021-03-14 20:48:13
町田 明広 @machi82175302

渋沢は、直接ペリー艦隊を目撃してはいないが、『清英近世談』(1850年)を読むことによって、黒船艦隊が江戸湾に現れる光景を想像し、攘夷に対する思いを深めていったのかも知れない。#青天を衝け

2021-03-14 20:48:30
町田 明広 @machi82175302

老中阿部正弘(1819~57)について、ここで復習を。天保14年(1843)に25歳で老中となると、安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。水野忠邦の失脚後、老中首座となり、外国船の出没が激しくなると海防を厳重にすることを奨励した。#青天を衝け

2021-03-14 20:49:52
町田 明広 @machi82175302

阿部正弘は、アメリカ・ロシア・オランダ・イギリスと和親条約を締結したが、本日は米英と締結後、ロシアの段階だった。阿部は安政の改革を断行したが、基本構想は譜代大名に独占された老中制度を打破すること、それによって譜代門閥制度による幕府独裁制を修正することにあった。#青天を衝け

2021-03-14 20:50:09
町田 明広 @machi82175302

朝廷と有力大名(御三家・一門・外様)の協力を得て、挙国一致体制の構築を企図したが、背景には直面する外交問題に対応できない幕府の深刻な武威低下があった。薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城と連携し、水戸斉昭を幕政参与とし、将軍継嗣としては慶喜を推した。#青天を衝け

2021-03-14 20:50:25
町田 明広 @machi82175302

安政の改革の具体的な施策としては、外交・国防問題に専従させる海岸防禦御用掛(海防掛)を任命し、幕臣の師弟のために、軍事的養成機関である講武所を設置した。加えて、江川英龍(太郎左衛門)に命じて、お台場に砲台を造営させた。こうして、海防・軍事の強化を目指した。#青天を衝け

2021-03-14 20:50:40
町田 明広 @machi82175302

諸藩に対しては、寛永12年(1635)の大船建造禁止令を廃止し、その建造を解禁し、海防の強化を命じた。また、幕臣以外にも広く門戸を開放した、国家レベルでの取り組みとして、洋学教育・外交問題研究機関である蕃書調所、および海軍士官養成機関である長崎海軍伝習所を設置した。#青天を衝け

2021-03-14 20:50:56
町田 明広 @machi82175302

安政の改革の中でも、最も重要な政策は人材登用で勝海舟、岩瀬忠震、川路聖謨、江川英龍、中浜万次郎、高島秋帆、永井尚志などを大抜擢。多くは目付・海防掛といった要職に起用された。安政の大獄で罷免等の弾圧を受けたが、この間は外交問題を中心として、阿部を補佐して幕政を担った。#青天を衝け

2021-03-14 20:51:40
町田 明広 @machi82175302

阿部政権は、外様大名から庶民に足るまで、外交問題についての意見を募るなど、開放的な政策を行った。その反面、身分や組織の枠を超えて議論を進める、いわゆる「処士横議」の風潮を生み、幕政批判が公然と起こる下地が形成された面もある。#青天を衝け

2021-03-14 20:51:59
町田 明広 @machi82175302

安政の改革は、幕府に一服の清涼剤を与え、立ち直りのきっかけになるかと思った。しかし、その矢先に、井伊大老直弼による恐怖政治が始まり、元の木阿弥に帰してしまったのだ。安政の改革はもっと注目されてよい。#青天を衝け

2021-03-14 20:52:12
町田 明広 @machi82175302

本日は2度も大地震が発生したが、そもそも江戸時代に死者1000人を超えたマグニチュード8以上の大地震は、三陸沖で1回、関東で1回、そして飛び抜けて多いのが、4度の東海-南海地震であった。#青天を衝け

2021-03-14 20:52:56
町田 明広 @machi82175302

具体的には、慶長地震(1605年、東海・東南海・南海)、慶長三陸地震(1611年、三陸沖)、元禄地震(1703年、関東)、宝永地震(1707年、東海・東南海・南海)、安政東海地震(1854年、東海・東南海)、安政南海地震(1854年、南海)であった。#青天を衝け

2021-03-14 20:53:25
町田 明広 @machi82175302

日露交渉史において、最も重要な人物は海軍軍人プチャーチン(1804~83)である。巻き込まれたのは安政東海地震であったが、まずはそのプチャーチンを紹介しよう。1822年に海軍士官学校を卒業し、海軍少尉を経て、1842年に海軍少将となり、1848年にはペルシャとの国境を画定した。#青天を衝け

2021-03-14 20:55:08
町田 明広 @machi82175302

1852年、海軍中将・侍従武官長の身分で第3回遣日全権大使節に任命され、嘉永6年(1853)7月18日、長崎に初めて来航し、その後幾多の困難を乗り越え、安政元年(1855)12月21日、下田で日露和親条約を締結した。その功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。#青天を衝け

2021-03-14 20:55:20
町田 明広 @machi82175302

1861年には教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命され、任期間に大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧した。また、明治14年(1881)には日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られ、1883年、80歳で死去している。#青天を衝け

2021-03-14 20:55:33
町田 明広 @machi82175302

そのプチャーチンが締結した日露和親条約について、その経緯などを見ていこう。ペリーに遅れること1ヵ月半後、嘉永6年7月18日、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉行に国書を渡し、江戸から幕府全権が到着するのを待った。#青天を衝け

2021-03-14 20:56:18
町田 明広 @machi82175302

プチャーチンは、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得、嘉永6年11月23日、不測の事態を回避するため、長崎を離れ一旦上海に向かった。12月5日、再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談した。#青天を衝け

2021-03-14 20:56:38
町田 明広 @machi82175302

嘉永7年1月8日、一定の成果を得たプチャーチンは、マニラへ向かい船の修理や補給を行った。旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、その後9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えた。#青天を衝け

2021-03-14 20:56:50
町田 明広 @machi82175302

プチャーチンは、イギリス艦隊との戦闘に備えるために旗艦以外の3隻の船を沿海州に残し、10月21日にディアナ号単艦で函館に入港した。しかし、同地での交渉を拒否されたため、有利に交渉を運ぶために京都(天皇)に近い大阪へ向かい、翌月に天保山沖に到着した。#青天を衝け

2021-03-14 20:57:38
町田 明広 @machi82175302

プチャーチンによって、大阪湾が無防備であることが帰せずして暴露されてしまい、朝廷は激しく動揺を来した。しかし、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けたため、あくまでも紳士的な対応を心がけ下田に入港した。幕府は再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣し交渉を命令した。#青天を衝け

2021-03-14 20:57:58