2021.03.07 NHK大河ドラマ「青天を衝け」 第四回「栄一、怒る」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

ペリーの夢であった通商条約の締結であるが、その実現はもう4年後に迫っており、日本は次なる試練を早くも迎えることになる。ペリーは皮肉にも、日米修好通商条約の締結目前の1858年3月に亡くなっているが、彼によって間違いなく、日本の開国は秒読みに入ったと言えよう。#青天を衝け

2021-03-07 21:01:25
町田 明広 @machi82175302

本題の渋沢栄一について、忘れてはいけない。安政元年(1854)から2年にかけての13、14歳頃までは、連日にわたって読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であった。この頃からは家業を手伝い始め、近隣村々を廻り藍葉の買い付けも1人で行っていた。#青天を衝け

2021-03-07 21:03:09
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、藍葉を藍玉にして取引先の紺屋に値段を決めずに先に送付した。そして、紺屋が使用した分だけの代金を徴収するために出張し、次の注文の確認をした。春・秋は様子を見に出かけ、正月(1月)・盆(8月)にはは集金に出かけるなど、年に4回は得意先を訪問していた。#青天を衝け

2021-03-07 21:03:58
町田 明広 @machi82175302

安政4年(1857)頃、渋沢栄一は17歳頃から信州・上州・武州秩父にある得意先廻りを1人で担当した。家業に対する熱意も沸き、当時の特産地・阿波の藍に負けないものを作りたいと近隣村々から藍葉を買い集め、作った人々を招待して番付を作成した。#青天を衝け

2021-03-07 21:04:46
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。競争意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励した。この話は渋沢の異能を物語るエピソードとして、あまりにも有名な話かも知れない。#青天を衝け

2021-03-07 21:04:58
町田 明広 @machi82175302

安政3年(1856)、16歳の時、岡部藩は血洗島村に御用金1500両を要求、渋沢栄一の生家「中の家」に500両を割り当てた。ちなみに、既にこの段階で、累積で2000両以上を生家は負担させられていた。#青天を衝け

2021-03-07 21:05:39
町田 明広 @machi82175302

父の名代として岡部陣屋に出頭、代官に対し、一旦帰宅して父に報告の上、改めて回答する旨陳述した。しかし、代官は渋沢を侮辱し直ぐにこの場での受諾を強要した。この前後の展開は、おおよそドラマ通りであったらしい。渋沢の勇気、恐れ入る。#青天を衝け

2021-03-07 21:06:21
町田 明広 @machi82175302

渋沢はこうした代官の態度に憤り、その原因を幕政の在り方と考え、社会矛盾を実感する起点となった。これを契機に後期水戸学に傾倒し、尊王攘夷を唱える師匠・尾高惇忠の影響も受け、渋沢は尾高長七郎、渋沢喜作らと天下国家を憂え議論する関係となった。#青天を衝け

2021-03-07 21:07:01
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、尊王志士の長州藩士多賀屋勇(坂下門外の変で捕縛)、宇都宮藩士広田精一(禁門の変で自刃)らが血沈島村周辺に来訪した時には、共に詩作し時勢を論じた。更に、幕府を批判するなど、こうした交流を通して、尊王攘夷思想に深く共鳴するに至った。#青天を衝け

2021-03-07 21:07:28
町田 明広 @machi82175302

先週予告した藤田東湖について、まずはJapanKnowledgeを基にご紹介。江戸後期の水戸藩士、水戸学者。文化 3年3月16日、藤田幽谷の次男として、水戸上町梅香に生まれる。幼名武次郎、のち虎之介。諱は彪(たけき)、字は斌卿(ひんけい)、東湖はその号。#青天を衝け

2021-03-07 21:08:41
町田 明広 @machi82175302

徳川斉昭の藩主就任の時、斉昭を擁立する改革派の先頭にたって活躍した。水戸の天保の改革では終始斉昭の側近として改革を推進した。1840年(天保11)35歳で側近三役の一つ、側用人の重職に抜擢され、やがて役料も加え500石を給せられた。父が町家出であるのを思えば、破格の昇進である。#青天を衝け

2021-03-07 21:09:14
町田 明広 @machi82175302

藩校弘道館の建設では、斉昭の意を受けてもっとも尽力した。建学の方針を示した「弘道館記」は、東湖が成文の中心で、その解説『弘道館記述義』は、会沢正志斎の『新論』とともに、水戸学の教典とされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の尊攘運動家に大きな影響を与えた。#青天を衝け

2021-03-07 21:11:08
町田 明広 @machi82175302

1844年(弘化1)斉昭の失脚とともに東湖も幕命をもって罷免され、謹慎を命ぜられた。やがて斉昭が幕府の外交に参与するに至り、東湖も中央で活躍する機会に恵まれ、1854年(安政1)には側用人再勤となり、翌1855年9月には学校奉行兼職となり600石を給せられた。#青天を衝け

2021-03-07 21:11:27
町田 明広 @machi82175302

安政の改革推進役となったが、1855年10月2日、江戸大地震(次週放送)のため官舎で50歳の波瀾の生涯を閉じた。著書には力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たした。#青天を衝け

2021-03-07 21:12:25
町田 明広 @machi82175302

今日から橋本左内が登場しました。左内は、現在の私の推しメンの1人です😃オープニングのタイトルロール、松平慶永(春嶽)、橋本左内が続けてクレジットされると、グッときて落涙しそうになりますね(´;ω;`)ウッ…まずはここに至る、ややその先までの簡単な左内紹介から。#青天を衝け

2021-03-07 21:13:31
町田 明広 @machi82175302

橋本左内は天保5年(1834)生まれの越前藩士で、嘉永2年(1849)、16歳で緒方洪庵の適塾に入門して2年4ヶ月ほど在塾(父の病気で帰藩)し、蘭学・医学を修めた。洪庵をして「彼は他日わが塾名を揚げん、池中の蛟竜(雌伏して待ち、時機を狙う人物)である」と、将来の大器と絶賛させた。#青天を衝け

2021-03-07 21:14:05
町田 明広 @machi82175302

橋本左内は、嘉永4年(1851)5月頃、横井小楠と2度面会。緒方や横井から直接薫陶を受けたことは、大きな財産になったと考える。その後、安政元年(1854)、21歳で江戸遊学。3月から蘭学、漢学塾に入門し、4月9日には吉田松陰の下田渡海事件を報じている。#青天を衝け

2021-03-07 21:14:22
町田 明広 @machi82175302

橋本左内が面識のない吉田松陰に関心を持っていたことは、その後の運命から感慨深いものがある。なお、嘉永4年(1851)8月頃、水戸藩の党争を憂い、水戸藩士原田八兵衛を訪問している。既に政治的事件に関心を持ち、水戸藩士との交流を始めている点に注目すべきであろう。#青天を衝け

2021-03-07 21:14:46
町田 明広 @machi82175302

このころ、橋本左内は蘭学だけでなく、英語・ドイツ語にも堪能であったとされ、漢学のレベルは学者以上であった。さらに、医学だけでなく、兵学や理化学の原書にも手を出していた。左内の好奇心の対象は幅広く、何度も言うけど、ダビンチ並の万能の天才とでも言うべきか。#青天を衝け

2021-03-07 21:17:27
町田 明広 @machi82175302

安政2年(1855)6月14日、橋本左内は藤田東湖から海防の示唆を受けて師事するが、東湖も左内を絶賛し、その存在を越前藩に報知している。なお、7月から11月にかけて、左内は士分に列するため帰藩する。春嶽は既に4月3日に江戸到着しているが、士分前の左内にはさすがに会っていないか?#青天を衝け

2021-03-07 21:17:51
町田 明広 @machi82175302

橋本左内は安政2年12月9日に江戸到着しているが、18日林鶴梁が左内へ宛てた書翰に、過日彦根人と面談の際、一橋西城(継嗣)の議があったが、その場合でなく身のためにならぬ故、くれぐれも口外することがないよう申し聞かせた旨記載がある。つまり、左内はもう一橋慶喜に注目している!#青天を衝け

2021-03-07 21:18:26
町田 明広 @machi82175302

橋本左内は『安政丙辰日記』(3年4月2日条)において、一橋慶喜の人物評を叙して「英明特絶と申す事」と特記している。左内には、水戸藩士からの影響が色濃く見られる。なお、春嶽は嘉永6年(1853)8月10日、阿部正弘に慶喜継嗣を入説している。春嶽は、水戸斉昭の影響か。#青天を衝け

2021-03-07 21:20:26
町田 明広 @machi82175302

ちなみに、西郷隆盛が初めて橋本左内に会ったのは、安政2年(1855)12月27日、水戸藩士・原田八兵衛の屋敷で、左内は22歳で西郷より7歳も若く、しかも小柄で眉目秀麗、婦人のような容姿であった。#青天を衝け

2021-03-07 21:20:47
町田 明広 @machi82175302

左内は、初対面の西郷を「薩芝上屋敷 御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月二十七日始於原八宅、相会す、燕趙悲歌之士なり」と慷慨家と評しており、好印象を得たとは言い難い。違った見方も存在するが。。また、西郷は当初、橋本左内の華奢な容姿から軽蔑的な態度で接したらしい。#青天を衝け

2021-03-07 21:21:23
町田 明広 @machi82175302

しかし、早熟の天才で学識において同時代人を遥かに凌駕し、理路整然と時事を談ずる左内に一度まみえると、誰もが圧倒され虜にされた。西郷も例外ではなく、これ以降、「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」と繰り返すほど左内に傾倒した。#青天を衝け

2021-03-07 21:21:55