2021.05.02 青天を衝け(12)「栄一の旅立ち」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

5/3 ツイートを追加し再更新しました。
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桐野作人 @kirinosakujin

今日は仕事の関係で、大河ドラマ関連のツイートは一橋慶喜関連を少しだけ。 まず平岡円四郎の羽織の家紋は「丸十」でしたね。これには驚きました。 あと、慶喜が幕府軍艦の順動丸で上洛する場面がありましたが、これは文久3年(1863)10月26日です。上洛は前年12月に次いで2回目です。 #青天を衝け

2021-05-02 22:44:07
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜の1回目の上洛のときも当初、海路でいう意見あり。それを主張したのは軍艦奉行並の勝安房。勝の日記によれば、当初、慶喜の軍艦での上京という内命が下ったが、陸路説も強かった。勝は「我れ力を極めて闘論、説得すといえども、俗論陰に盛んにて朝令夕変」した。#青天を衝け

2021-05-02 22:44:08
桐野作人 @kirinosakujin

このとき、慶喜の海路上洛が実現していたら面白かった。当時、坂本龍馬が勝安房の配下になったばかりだった。結局、勝は軍艦順動丸で老中格の小笠原長行を乗せて上坂する。これに龍馬と千葉重太郎も乗船している。慶喜も乗っていたら、当然、龍馬と話をしただろう。#青天を衝け

2021-05-02 22:44:08
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜は文久3年4月、孝明天皇の石清水行幸に供奉してから、陸路江戸へ下る。江戸での滞在は半年ほどで、2回目の上京は10月26日で、このときは築地操練所から軍艦蟠龍丸に乗り、浦賀で順動丸に乗り換えている。ドラマの場面はこのとき。ただし、この上洛では勝安房は同行していない。#青天を衝け

2021-05-02 22:44:08
桐野作人 @kirinosakujin

興味深いのは慶喜の江戸滞在の半年間。一橋徳川家の用心日記によれば、幕閣や外国奉行など要路の役人たちとの会合がかなり多いが、幕府関係者以外の会見はほとんど薩摩藩士たちであるのが面白い。5/16高崎猪太郎、10/6重野安繹、10/14新納嘉藤次、吉井幸輔、10/22大久保一蔵、重野安繹。#青天を衝け

2021-05-02 22:44:09
桐野作人 @kirinosakujin

8・18政変で長州勢力を排除したことで、幕府と薩摩藩は連携することになったが、慶喜が薩摩藩の重要人物たちと度々面談した理由は何だったのか。ひとつは薩英戦争後なので、慶喜はその実戦談を聞きたかったか? なお、平岡円四郎はその間に、慶喜の要請で本高100俵を与えられている。#青天を衝け

2021-05-02 22:44:09
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜と薩摩藩士たちの会見だが、重野安繹と2回も会っているのを見ると、横浜で開かれた薩英の講和交渉と無関係ではないだろう。慶喜は英国の動向と和平の成行を注視していただろうし、薩摩側は慶喜に交渉の助力を求めたか? #青天を衝け

2021-05-02 23:00:25
桐野作人 @kirinosakujin

訂正 ✖用心日記 〇用人日記 『新稿 一橋徳川家記』のことです。 twitter.com/kirinosakujin/…

2021-05-02 23:02:22
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」。チラリと思ったことだが、渋沢栄一と坂本龍馬の類似性。身分は多少違うが、共通点は正規の武士ではなかったこと。あと、文久年間、攘夷運動の激化のなかで、それから離れて慶喜や勝安房といった幕府側に仕えたこと。攘夷派からみれば、裏切り行為といえる。#青天を衝け

2021-05-02 23:22:59
桐野作人 @kirinosakujin

攘夷派からの論難に対して、渋沢は攘夷の家元、烈公の秘蔵の息子に仕えて何が悪い。龍馬は海軍を興して大攘夷を行うぜよ。でも、水戸攘夷派の攻撃で平岡や原市之進が犠牲になったため渋沢は存命できた。2人は当時の潮流からズレて独自の道を歩いたので、むしろ、名を残したともいえる。#青天を衝け

2021-05-02 23:23:00
桐野作人 @kirinosakujin

昨日の大河ドラマに、波岡一喜さん演じる一橋慶喜の家臣、川村恵十郎(正平)が登場。無言で不気味な感じだった。実際、天然理心流の使い手のようですね。彼は相模、甲斐との国境、甲州街道の小仏関の関守の出身ですね。同じ関所(駒木野関)出身で10歳くらい年長に落合源一郎直亮がいる。#青天を衝け

2021-05-03 12:49:08
桐野作人 @kirinosakujin

川村は平岡円四郎の配下だったが、平岡が水戸攘夷派に襲撃されたとき、それを迎え撃ち、2人を斬り倒したという。詳しくはドラマのお楽しみ。 それより、川村は慶喜家臣になったが、先輩の落合は国学者で、一度は清河八郎などとともに浪士徴募に応じて上京している。#青天を衝け

2021-05-03 12:49:08
桐野作人 @kirinosakujin

だから、近藤勇や土方歳三と同じ道を歩んでもおかしくなかった。落合は文久3年(1863)には天誅組の大和挙兵に、翌元治元年には天狗党の挙兵に応じようとした。渋沢らと近い思想、位置にいた。天狗党挙兵の前後に知り合ったのが小島四郎、のちの相楽総三である。#青天を衝け

2021-05-03 12:49:08
桐野作人 @kirinosakujin

相楽総三は旗本酒井錦之助の家来。文久3年に幕府関係に提出したと思われる上書(西澤朱実氏発表)が意外な内容で興味深い。攘夷を訴えながらも、幕府を非難し、京都周辺で狼藉する長州系の浪士たちを成敗すべきだと主張。攘夷派といっても一括りにできない。#青天を衝け

2021-05-03 12:49:09
桐野作人 @kirinosakujin

宮地正人氏は、関東出身で幕府に親近感をもつ攘夷派を「東国勤王派」と定義した。渋沢も、川村も、落合も、近藤・土方も、相楽もこの系譜とみてよいのかも。攘夷派といっても一様ではなく、西国の長州や土佐系だけの専売特許ではない。のちに彼らの去就は分かれ、敵対関係にもなっていく。#青天を衝け

2021-05-03 12:49:09