2021.05.09 青天を衝け(13)「栄一、京の都へ」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

本日は「青天を衝け」13回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け

2021-05-09 17:39:59
町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」13回目を拝見!舞台はいよいよ幕末京都、一気に登場人物も華やかになりました。史実を押さえながらも、ドラマとして楽しめる構成でした。憑りつかれた長七郎が飛脚を切ってしまう展開、鬼気迫るものがあり、渋沢らが絶体絶命から脱する平岡とのやり取り、面白く絶妙でした‼️#青天を衝け

2021-05-09 20:45:06
町田 明広 @machi82175302

一橋慶喜の家臣たち、中根長十郎、平岡円四郎、川村恵十郎、黒川嘉兵衛、原市之進、そして渋沢栄一と、これだけちゃんとキャスティングしていることが普通に凄いと感じる。1人や2人、スキップされそうなところ、そうではない。一橋家がここまで描かれる大河、最初で最後かも。#青天を衝け

2021-05-09 20:46:28
町田 明広 @machi82175302

ドラマで描かれた文久3年から元治元年(1863~64)は、即時攘夷派と未来攘夷派が激しく抗争を繰り広げていた激動の時期に合致する。さて最初に、その間の政治動向について、私の専門対象である薩摩藩の動向を中心に概観しておこう。#青天を衝け

2021-05-09 20:47:10
町田 明広 @machi82175302

文久3年7月2日、前年の生麦事件後の賠償問題などがこじれて、鹿児島の錦江湾で薩英戦争が勃発した。薩摩藩は戦死者こそ5名程度であったが、艦砲射撃によって鹿児島城の一部、集成館(洋式の近代産業の工場群)、鋳銭局(貨幣の鋳造工場)を始め、民家約350戸、武家屋敷約1600戸が焼失した。#青天を衝け

2021-05-09 20:47:51
町田 明広 @machi82175302

薩英戦争によって、英国艦隊に圧倒的な武力の違いを見せつけられ、島津久光および藩重臣たちは、これ以上、英国との戦争を継続することは困難と悟ったため、早急な講和談判の開始を求めた。一方で当時の中央政局は、過激な攘夷行動に走る長州藩に牛耳られており、その打開が急務であった。#青天を衝け

2021-05-09 20:48:28
町田 明広 @machi82175302

しかし、英国との緊張関係のため薩摩藩・久光はなかなか乗りだすことができなかった。しかし、この段階では、久光の名代的存在である中川宮の窮地(「朔平門外の変」の首謀者であるとの嫌疑や、攘夷の先鋒である西国鎮撫大将軍への就任の強要)を救う必要が生じていた。#青天を衝け

2021-05-09 20:48:56
町田 明広 @machi82175302

中川宮の窮地を救うため、高崎正風など在京の薩摩藩士が画策した「八月十八日政変」によって、長州藩および三条実美ら過激派廷臣を京都から追放することに成功した。拙稿「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について‐八月十八日政変を中心に‐」(『日本史研究』第539号、2007年)参照。#青天を衝け

2021-05-09 20:51:12
町田 明広 @machi82175302

薩英戦争の講和によって、英国の脅威を取り除いた島津久光は、八月十八日政変後の中央政局に進出することが叶った。この時の久光は、朝廷と幕府のどちらからも絶大な信頼を勝ち取り、まさに人生のクライマックスを迎えることになる。#青天を衝け

2021-05-09 20:51:56
町田 明広 @machi82175302

島津久光は朝政参与の実現(いわゆる参与会議)を画策し、元治元年1月には一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂、伊達宗城らとともに朝政参与に任命された。加えて、二条城での老中御用部屋入りを許され、念願の幕政への参加も実現したかに見えた。#青天を衝け

2021-05-09 20:53:02
町田 明広 @machi82175302

しかし、参与会議の実態は単なる朝議の諮問機関に過ぎず、老中御用部屋入りも単なる形式的なものであり、久光の国政への参画は画餅に帰した。しかも、横浜鎖港をめぐって久光は慶喜と激しく対立した。#青天を衝け

2021-05-09 20:53:23
町田 明広 @machi82175302

さらに悪いことに、孝明天皇が嫌う山階宮の還俗を画策し、朝廷に無理強いをしたため、肝心の天皇とも疎遠になってしまった。こうして、朝政参与の体制はあっけなく瓦解してしまった。なお、久光の命に背き、島流しとなっていた西郷隆盛が沖永良部から召喚されたのはこの時期である。#青天を衝け

2021-05-09 20:54:11
町田 明広 @machi82175302

久光を始めとする参与諸侯は、この事態に失望し次々に京を去ったが、一方朝廷は幕府へ大政委任を通達し朝廷と幕府の関係は蜜月期を迎えた。中央政局では孝明天皇、朝彦親王(中川宮を改名)、関白・二条斉敬が一会桑勢力(一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)と癒着した。#青天を衝け

2021-05-09 20:55:11
町田 明広 @machi82175302

朝彦親王・二条関白・一会桑勢力体制が構築され、江戸の幕府本体とは距離を置きつつ、勢力挽回を狙った長州藩による率兵上京に備えた。一方で島津久光は在京の薩摩藩士に対し、幕府とは距離を取りながら禁裏の警護に専心するように指示した。ちなみに元治元年でなく文久4年、さすがの考証。#青天を衝け

2021-05-09 20:56:39
町田 明広 @machi82175302

朝彦親王に代わって中央政局において久光の名代的存在となった小松帯刀の下で、島津久光は自らの考えを遵守させて、幕府・長州藩双方からの働きかけには冷淡な対応をとった。ちょっと、先を行き過ぎたが、この先いよいよ、池田屋事件、その先の禁門の変に繋がることになる。#青天を衝け

2021-05-09 20:57:21
町田 明広 @machi82175302

ところで、文久3年11月の一橋慶喜の上洛時、慶喜と久光は蜜月状態にあった。文久2年6月、久光が勅使を伴って出府し幕府人事に介入した際、将軍後見職に就いた慶喜からも嫌疑を向けられていた。しかし、今回は朝廷とのパイプ役として、久光は慶喜から大いに期待される立場に変わっていた。#青天を衝け

2021-05-09 21:00:33
町田 明広 @machi82175302

文久3年11月26日、春嶽は上京した慶喜に対し「薩の心中を御疑ひなさるや」と尋ねたところ、「江戸にてハ大に疑ひ居り拙者も同様なりしか、疑ひたりとて何の益もなき事故、最早疑ハさる心得なり」(続再夢)と回答している。#青天を衝け

2021-05-09 21:00:58
町田 明広 @machi82175302

さらに慶喜は、「小生と三郎(久光)とハ兼て懇意に致し居る事なるか専ら正議を唱ふる人なり、然るを幕府にてしか疑ハるヽハ実ハ損あるも益なき事なり、尊卿愈疑はれすとならハ、今晩直に御投書明日御招きありてハ如何」との春嶽の提案に同意している。#青天を衝け

2021-05-09 21:01:12
町田 明広 @machi82175302

島津久光は12月1日に慶喜に再会しているが、その印象を「種々懇話、至極丁寧之会釈、去年以来之模様とは大ニ相違ニ而、只打解而之談判ニ而、仕合之至御坐候」 と述べており、感激の様子が窺える。#青天を衝け

2021-05-09 21:01:55
町田 明広 @machi82175302

しかし、元治元年1月に下賜された2回の宸簡の草案を薩摩藩が起草したとの疑惑を平岡円四郎が嗅ぎ取ったことから、事態は暗転する。慶喜は久光のこれ以上の朝廷・孝明天皇への容喙を極度に恐れ、久光を嫉視警戒するに至った。蜜月時代の終焉である。#青天を衝け

2021-05-09 21:02:27
町田 明広 @machi82175302

さて、渋沢栄一に話を移そう。文久3年秋、渋沢らは横浜焼き討ち計画を立案し、実行寸前に至ったが、尾高長七郎が京都から戻り、八月十八日政変の勃発など即時攘夷派が逼塞せざるを得ない中央政局の情勢を説明したため、決行を主張した渋沢と大激論の末、中止決定となった。#青天を衝け

2021-05-09 21:05:20
町田 明広 @machi82175302

幕府に捕縛される危険もあったため、11月8日に渋沢栄一は喜作とともに、伊勢参拝を兼ね京都見物に出発すると吹聴して出村した。江戸に出て平岡円四郎の家来の名義を獲得し、14日に京都へ出立した。渋沢らが平岡を頼っている事実から、相当交流があったことがうかがえる。#青天を衝け

2021-05-09 21:05:43
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一・喜作の京都行き関しては、川村恵十郎の配慮、そして平岡円四郎の事前の了解があって初めて可能となったわけだが、留守を預かる平岡の妻「やす」とも話ができていたことを考えると、平岡はある程度、この展開を予想していたのかも知れない。#青天を衝け

2021-05-09 21:06:39
町田 明広 @machi82175302

ちなみに、平岡円四郎について、本人の情報も極端に少ないが、妻「やす」に至ると情報はほぼ無い。なお、息子は2人いたらしく、渋沢栄一も明治20年代までは消息を把握していたようだ。#青天を衝け

2021-05-09 21:07:50
町田 明広 @machi82175302

さて、渋沢らは11月25日に入京し、それ以降は志士と交わり、12月中旬に至り伊勢大神宮を参拝した。いよいよドラマは元治元年に突入する。この間、確かに放蕩したらしく、大金を所持したいたものの、あっという間に使い切り、謝金までしていたらしい。#青天を衝け

2021-05-09 21:08:18