2021.05.23 青天を衝け(15)「篤太夫、薩摩潜入」放送後の町田明広先生による解説ツイート

本日は「青天を衝け」15回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け
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町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」15回目を拝見!渋沢がスパイとして薩摩藩士間に潜り込み、西郷と出会い渡り合う展開が小気味よく描き出され、しかも渋沢の異彩を放つ姿が十二分に堪能できました👌慶喜はメチャ優しいし👍次回の平岡の悲劇の伏線が、そこかしこに散りばめられ、既に涙腺が緩くなってます😢 #青天を衝け

2021-05-23 20:44:54
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一の改名について、『御口授青淵先生諸伝記正誤控』によると、「篤太夫と名を改めたに就て仰。「それは平岡がつけて呉れたのだ。平岡がね、『君は地味さうな男だから篤太夫がよからう』と云つてくれた。(続く)#青天を衝け

2021-05-23 20:46:09
町田 明広 @machi82175302

そこで渋沢は、「『篤太夫は何だか親父のやうな名前でどうも少し……』と云つたのだが、『それがよい』といふのでまアさうした。篤行を以て人を教へよとのつもりである」とのこと。まさに、ドラマ通りの展開(^^) #青天を衝け

2021-05-23 20:46:13
町田 明広 @machi82175302

元治元年(1864)2月8日、渋沢栄一は喜作(ここでは改名せず、栄一・喜作で通します)とともに、奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)で出仕、4月中旬に御徒士に昇進し、この頃、初めて慶喜に内御目見を許され、意見を述べている。#青天を衝け

2021-05-23 20:47:02
町田 明広 @machi82175302

渋沢は「幕府の命運は危うき状態になり、徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」(渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。#青天を衝け

2021-05-23 20:47:15
町田 明広 @machi82175302

一橋家の京都屋敷は初め東本願寺の内に置かれ、元治元年春に小浜藩京都藩邸に移設された。渋沢と喜作は三条小橋の宿から通勤することになった。渋沢らの家は、池田屋から至近距離の可能性あり。この後、彼らは関東に下るため、池田屋事件には遭遇せず。もちろん、禁門の変にも。#青天を衝け

2021-05-23 20:47:56
町田 明広 @machi82175302

平岡円四郎は、渋沢栄一の政治力に目を付けており、非常に高く評価した。そのため、一橋家に仕官した当初から、渋沢は御用談所に勤務し、慶喜のために探索・周旋活動を行う非常に重要な政治的ポジションを付与された。常に朝廷・幕府・諸藩の関係者と接触を持ち、機密情報にも精通した。#青天を衝け

2021-05-23 20:49:50
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、平岡円四郎の密命を受けて大坂に下り、元治元年(1864)2月25日から4月7日までの間、薩摩藩士の摂海防禦御台場築造御用掛・折田要蔵の門下生となり、スパイ活動に従事した。渋沢にとって、最初の大仕事がなんと薩摩藩関連の「潜入捜査」であったのだ。#青天を衝け

2021-05-23 20:50:18
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、折田要蔵への入門の経緯として、回想録であるが「何でも幕府の失政を機会にして、天下に事を起さんとするものは、長か薩かの二藩であると思った」(雨夜譚)と、薩長両藩への嫌疑が発端であるとする。その発想、既に一橋家の一員である。#青天を衝け

2021-05-23 20:51:42
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は続けて、「併し是等の事は直接に度々君公へ言上することも出来ないから、平岡円四郎へ忠告して、薩藩の挙動に注目せねばならぬ、之を知らむければ京都を警衛することは出来ませぬと申入れた」とする。平岡から命じられたのではなく、渋沢から平岡に申し入れたと述べる。#青天を衝け

2021-05-23 20:51:59
町田 明広 @machi82175302

ここに至る前提の話を少々。島津久光は摂海防備について、強い危機感を覚え、積極的な動向を示し、元治元年1月(日未詳)には建白書を幕府に提出した。それによると、横浜鎖港に対する大きな懸念を示し、摂海の無防備さを批判する。#青天を衝け

2021-05-23 20:53:09
町田 明広 @machi82175302

また、島津久光はその建白の中で、「往々人之国ニ兵艦を差向候ニは、必先ツ其国之都会咽喉之場所を攻撃すと相見得候得は、前条通摂海之形勢無人之地同然ニ而、迚も禁闕之保護、京畿之警衛如何可有之哉、実以不安心之儀」と、的確に摂海の重要性とその無防備な現状を指摘する。#青天を衝け

2021-05-23 20:53:23
町田 明広 @machi82175302

島津久光は、さらにその建白の中で、現状の摂海防衛レベルでは、御所も上方の警衛も不安極まりないと危機感を表明する。加えて、「摂海之要港ニは公武同一体ニ而、皇国之全力を以、彼カ砲艦ニ可対応海陸之実備を厳にし内外之見据屹度相付、速に叡慮相立候様有之度奉存候」と述べる。#青天を衝け

2021-05-23 20:54:39
町田 明広 @machi82175302

島津久光は、その建白によって、摂海防御は公武一体となって、皇国の全力を挙げて実現し、速やかに叡慮が叶う事を懇請している。久光は続けて建白の中で、軽率な攘夷実行を戒めて幕府の奮発を促し、攘夷のための攘夷として、至急の武備充実を進言した。#青天を衝け

2021-05-23 20:54:52
町田 明広 @machi82175302

最後に、「我ニ十分之武備さへ相立候得は、神州之気節ニ而は、数十年を経すして御国威海外ニ輝キ、宇宙ニ冠たる強国ト相成、夷賊御征服無疑義と奉存候」と、久光本来の東アジア的華夷思想を建白の中で吐露している。#青天を衝け

2021-05-23 20:55:11
町田 明広 @machi82175302

島津久光の対外認識はぶれがなく、将来の外国侵略、その上の華夷帝国創成のため、現行の通商条約を容認して即今破約攘夷といった軽挙妄動を否定し、当面の至急の武備充実を企図していた。#青天を衝け

2021-05-23 20:55:38
町田 明広 @machi82175302

元治元年2月に至り、横浜鎖港が国是となって、島津久光も一応黙認した形となったが、一方でその実現に関しては深甚な危機感を抱いており、重ねて建言を行った。横浜鎖港はとても列国が承認するところとはならず、兵端を開くことは疑いがないとする。#青天を衝け

2021-05-23 20:57:04
町田 明広 @machi82175302

また、島津久光は、欧米列強から仮に鎖港を承認されたとしても、引払い料は莫大な金額となり、そのことを日本人は認識していないため、国内が沸騰して鎮静ができなくなると指摘して、武備充実論を繰り返し展開した。#青天を衝け

2021-05-23 20:57:19
町田 明広 @machi82175302

島津久光は、開鎖については先送りとし、各要港での武備充実を厳整すべく、諸藩および富裕商人にも経費負担を命じ、軍艦は輸入するなど、皇国として成り立つように尽力すべきである。武備充実の上は開鎖の権は掌中となり、遂には国威が輝いて朝貢国を持つことになると論じる。#青天を衝け

2021-05-23 20:57:47
町田 明広 @machi82175302

島津久光の現実的な施策の建言であり、一方では生来の東アジア的華夷思想に基づく皇国観を示している。しかし、この建言にも拘らず、幕府は横浜鎖港方針を取り消さず、また、久光が摂海防御においてもイニシアティブを執り、朝政に深く関与することを嫉視警戒した。#青天を衝け

2021-05-23 20:57:55
町田 明広 @machi82175302

一方、島津久光は幕府からの要望に応え、2月18日に二条城において、「摂海砲台等ノ絵図差出候様トノ事故持参」して老中水野忠精に提出している。これは薩英戦争で砲台築造・大砲鋳造の主事を務めた藩士折田要蔵に作成させたものであった。#青天を衝け

2021-05-23 20:59:53
町田 明広 @machi82175302

この折田要蔵作成の「摂海砲台等ノ絵図」によると、木津川口・天保山・岸和田・尼崎等の摂海要衝14ヶ所に砲台を築造し、810門の大砲を設置する案であった。幕府はこれを受け入れ、兵学者として高名を博していた折田を摂海防禦御台場築造御用掛として登用した。折田、そこまでじゃない💦 #青天を衝け

2021-05-23 21:00:34
町田 明広 @machi82175302

一橋慶喜は、禁裏御守衛総督摂海防禦指揮(3月25日)に任命されており、抗幕姿勢を憚らない薩摩藩に属する折田の動向は監視すべき対象えあった。その間、渋沢は折田を通じて、薩摩藩の奈良原繁・川村純義・三島通庸・海江田信義・内田政風・高崎五六らと懇意となっている。#青天を衝け

2021-05-23 21:01:47
町田 明広 @machi82175302

さて、スパイ・渋沢栄一の話を聞いておこう。「折田要蔵は、大阪土佐堀の松屋といふ家に下宿して居たが、其玄関には、紫の幕を張つて、而して看板には、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵と、如何にも筆太に大きな字を書いて掲て居たから、誰でも能く目がついた」(「雨夜譚」)と述べる。#青天を衝け

2021-05-23 21:03:18
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は続けて、「同じ薩藩の連中で、常に此処へ遊びに来たのは、今の警視総監の三島通庸、前海軍卿の河村純義、日本鉄道会社々長の奈良原繁、それから中原直助だの、海江田信義、内田正風、高崎五六などの人々であつた」と、接触した薩摩藩士を列挙する。#青天を衝け

2021-05-23 21:03:36