2011年8月
@_monpe 唐突にちょと聞きたいんだけど、私が「私たち」って発話するのを聞いたとき(たいてい政治的な色合いのある文章で私はこの言葉を選ぶわけだけで)、なんだろう、欺瞞の臭みみたいなものって感じたことある? 周りからどんなふうに見えるものか気になって。
2011-08-06 02:02:30@yozhiku 私は自身の言葉遣いがズサンなこともあって、あまり気にならないです。とはいえ、ワイドショーなんかが気軽に使う「国民の怒りの声」といった物言いは嫌いですし(勝手に一緒にするな)、「私たち」という言葉に同様の不快感を持つ人がいることは想像できます。
2011-08-06 02:15:03@yozhiku じゃあyozhiku兄の「私たち」は平気で、ワイドショーの「国民は怒ってるぞ!」がイヤなのは何でかって考えると、やっぱり発話全体の内容から判断してるのかな。「ああ、この人は本気で「私たち」の立場で語ろうと努めてる」と感じれば気になりません。
2011-08-06 02:18:19@yozhiku 要するに欺瞞を感じるか否かは相手次第です。私は。あ、でも今思い至ったけど「国民」はちょっと違うかな。「私たち」なら自分の意志で自分をそこから入れたり出したりできるけど、「国民」は日本国籍持ってる人は問答無用で括られちゃうから、どんなに共感できる話でも不愉快。
2011-08-06 02:22:20
@_monpe 多謝! 「国民」か「私たち」か、というのは確かにありそう。もちろん国民だって文脈や時代による響きの相違はあるけど、基本的には国民て発話は客観性を帯びて、それを観察する(中立な・責任を負わない)主体を想起させるように思われる。そういう意味で報道にはふさわしいのか。
2011-08-06 02:33:39@_monpe 本気か否かはさておき、私が「私たち」という言葉に賭けているものはあって、でもそれは必ずしも一般的に共有されたものではない、というのはそれは欺瞞だという指摘を受けて感じたんだ。 ああ、私の賭け金は見えないことがありうるんだなって。
2011-08-06 02:47:07@_monpe たとえば、「私たち」にかつての左翼的なよい子ちゃんの響きを見いだすのも、集団主義を見いだすのも、個人主義の未熟を見いだすのも、いまだに有効で有意義なのかもしれない。 そこでは、あえて「私たち」を選ぶ感覚は、理解されない。
2011-08-06 02:52:30@_monpe あえて欺瞞を生きることで、欺瞞を欺瞞のまま真実に錬金しようとする態度。 賭け金は、市民というスタイルと、それに伴う責任であり政治性だろうか。ここでいう政治性は、「私たち」の内包を拡大することで、統治の問題に至る。
2011-08-06 03:00:03@yozhiku 多分私も、兄さんが「私たち」を選ぶ真意を理解していないと思いますよ。それでも受け入れられる間口の広さを持っている言葉が「私たち」なんだと思う。
2011-08-06 03:00:09@_monpe もう一つの賭け金は、「私は」と語ることの救いがたい容易さを捨て去ることか。「国民は」と語るのと「私は」と語るのは、発話者のこの社会への責任の解除という点で、たぶん通底してるんじゃないか。
2011-08-06 03:05:50@_monpe でしょ!感覚的にわかると思うんだ。ただ残念ながら二つの語りのいかがわしい近さについて、どうも精密には語れず…。 私自身もかつては「私たち」を忌避して「私は」を選んでたのは事実で、やがて「私は」という発話の欺瞞に耐えられなくなったんだな。
2011-08-06 03:20:49@_monpe かと言って、「私たち」が欺瞞でないということでは勿論なく。課せられているのは、どの欺瞞を私は選ぶか、でしかない。 若かりし私には「私は」という発話は欺瞞を孕みえない真実のように見えたのだけども。
2011-08-06 03:28:22@yozhiku 私はそんなに立派に考えてるわけではないのです(汗。本当は「オマエは」と言いたいけど角が立つのは嫌なときに「我々は」としたり、「私たちは」と言いたいけど角が立ちそうなので「私は」にしたりするので。
2011-08-06 03:29:23
「そういう解釈なら、自分の意見を「国民」に代弁させるがごとき使いかたをする報道は余計に不愉快ですねw」(monpe)
@_monpe 放送は社会の公器、公正中立じゃなきゃいけないんですぅ~。 QT _monpe: そういう解釈なら、自分の意見を「国民」に代弁させるがごとき使いかたをする報道は余計に不愉快ですねw
2011-08-06 03:08:44@_monpe チューリツでコーセーなのはさておき、「自分の意見を「国民」に代弁させ」うるのが、まさに報道の孕みうる欺瞞、だよね。ただ、その欺瞞なしに価値ある報道を成立させるのは非常な困難だとも思うけれど。 その欺瞞によってこそ届く声はある気がするから。
2011-08-06 03:13:31@yozhiku 記者ってのは「これが国民の論点だ、知りたいことだ」と思うところにフォーカスして取材するわけで。しかし、そこからシームレスに「これが国民の主張だ」まで飛躍してしまうとどうかなぁ。でもそこまでトチ狂わないと届かないのかもしれない。
2011-08-06 03:18:29@_monpe: 取材の間に問題に過剰に入れ込んでしまうのと、プラス、一種の予言の自己成就を期待しちゃうのかもしれないね。 QT 記者ってのは//しかし、そこからシームレスに「これが国民の主張だ」まで飛躍してしまうとどうかなぁ。でもそこまでトチ狂わないと届かないのかもしれない。
2011-08-06 03:33:16
「課せられているのは、どの欺瞞を私は選ぶか、でしかない。 若かりし私には「私は」という発話は欺瞞を孕みえない真実のように見えたのだけども。」(yozhiku)
@yozhiku ああ、それそれ。具体例は思いつかないけど、その発話に適切な言葉選びでないかぎり「私は」も「私たちは」も欺瞞になりうるときがあるんじゃないかな。
2011-08-06 03:30:02