- nikko81_fsi
- 910
- 6
- 0
- 0
仏法の都で #カレー活 🍛 ある意味、インド×インドで相応しいのかもしれぬ… お野菜たくさん👍️ pic.twitter.com/W2z3VMjTKB
2021-05-22 12:40:49「高野山の名宝」展第1期。運良く霊宝館館長さまにご案内いただける機会に恵まれ、さらにギャラリーに参加された皆様に、伽藍不動堂の御本尊である御不動様、八大童子立像を撮影することも、館長様の特別な御許可でお撮り申し上げました。SNS掲載もよいとのこと。感謝に堪えません。 pic.twitter.com/odI2b9K2Z7
2021-05-22 17:16:36御不動様と童子像のうち二体は違うのですが、残り六体は国宝。豊かな表情が楽しめます。素人でも慶派らしさがわかりやすいです。こちらも館長さまの御許可を賜りました。 pic.twitter.com/FdjpDovlz8
2021-05-22 17:22:43信玄公像にも取り入れられたりますが、目が上下に向くのはあまねく見渡す意味があるそうですね。御不動様、ウインクされててきゃわいい😉➰💕……………ではありません。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-22 17:26:30さて今回の高野山、「高野山の名宝 」展に持明院蔵武田晴信像、持明院蔵武田勝頼妻子像、成慶院宛武田勝頼寄進状を拝見するのが目的。やはり、実物をみるのはよい。持明院蔵は旧館、成慶院蔵は新館に展示。
2021-05-22 18:45:55晴信像は展示の照明せいか、以前観たよりも、また山梨県立博物館の複製版よりも、かなり像がはっきり明るく、また柔和にみえた。一番の確認事項は花菱紋。武田氏研究の藤本論文にあるように、確かに全体のくすんだ感じ、特に鶴の意匠と比べ明瞭にみえ、後から足された印象は確かに受ける。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-22 18:51:13また直垂の色の掠れも花菱の内側だけあまりないようにみえる。かなり接近したけど、このあたり透過X線撮影でその是非を調べられないかな。てみていると、勝頼妻子像の勝頼、信勝の剣花菱もやけに目立つようにみえてしまう。非接触でどこまで調べられるか…
2021-05-22 19:05:25勝頼妻子像では全体的な色彩からみて掠れが少ないようにみえて、痛み具合のムラがあるようにみえたのは、家紋の他は軍配や刀の鍔。どれも他と比べると妙にはっきりしてるような。一方、北条夫人にはそういう点はないが、片膝座りよりも、お召し物を踏んづけているようにみえたのがきになった。
2021-05-22 19:12:04風林火山展で出ていた勝頼公寄進状を拝見。戦国遺文で翻刻コピーしてくりゃよかった。委細はナントカ左衛門尉…のナントカがわからん。ちょっとねえ、勝頼公の文書としては筆跡が他と違う印象なのよね。花押はバッチシなんだけど。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-22 19:16:10風林火山図録に信玄公の成慶院寄進文書や勝頼公の信玄公寿像、遺品の寄進や日牌料として黄金十両を寄進する文書、それを納める、花菱入の蒔絵文箱が掲載。これまだ見たことないな…普段は高野山霊宝館にあるのかな。
2021-04-18 14:10:34日牌をお願いするのは「恵林寺殿」寿像に言及するのは「信玄公」と使い分ける点も気になった。五月十六日は…天正三年なのかな?いや山県が訪れたのが天正三年三月六日、長篠合戦が五月二十一日…だけど。どうなんだろう。
2021-05-22 19:26:56霊宝館の前にはお墓参りも。苔むしてるけど、信玄公勝頼公ともに、文字がしっかりわかるのがうれしい。 pic.twitter.com/xgcQeU85qW
2021-05-22 19:31:56近くには勝頼公と連携を図っていた赤井(荻野)直正もいるんだよね。 pic.twitter.com/hcEmiISEqs
2021-05-22 19:35:20さっそく行って参りました。たのしい!柳沢文庫の所蔵品だけなので、多くはないですが、よいものが揃ってます。絵画に前期後期の区分けがあり、前期7月初旬までは信玄像、後期は武田二十四将像になる見込み。展示図録はありませんが、柳沢文庫収蔵品図録で包含できるかと。 pic.twitter.com/Mf1k42Glry
2021-05-23 15:38:53さて、先週の件振り返っていきましょう。①柳澤氏の系譜。柳澤信俊よく知らない人物でしたが、元々は青木信俊。三代前に柳沢と青木は分かれているいわば親類。柳澤信兼が軍令違反で処罰され、信俊が柳澤を継承。青木のほうが本流なのかも? twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-30 08:42:37②宇治川先陣図、古筆了仲極鑑定目録。初公開。武田家所有の平家物語の場面を描いた作品。信玄賛と評価される和歌あり。鑑定目録では「両軸和歌武田信玄御筆蹟無疑似者也」とある。実は文書に意識が行っていてこれよく見てなかったのだ…もう一度見ないと、、、、前期は左幅、後期は右幅。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-30 08:49:07③信玄・勝頼書状各一通。いずれも成慶院に宛てた文書で信玄七通、勝頼六通のほか、武田満千代(松平信吉)も四通。前後期で開披箇所変更。図録で一気にどーんと見たいところ…やはり「浄」慶院という表記は気になる。武田満千代が成慶院に宛てているのは武田宗家を継承した自負と追認によるものか。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
2021-05-30 08:56:14しかし、穴山梅雪はないのだな…勝頼自刃から梅雪落命まで日が浅すぎるか…穴山武田氏が続いていたら、水戸藩が成慶院を支援し続けることができただろうか。
2021-05-30 08:58:32そして、柳澤家が本文書を入手した経緯。これが謎。柳澤吉保は武田に関わる文物を蒐集していたので、その一環ではあると思える。伝馬朱印状も含め、すべて成慶院に関わるもの。ある時期に成慶院が手放したのだろう。以前読んだ本でちょっと気になることがあったのを思い出した。
2021-05-30 09:02:05米沢藩武田氏(信玄七男信清系統)の所有する文書に「武田より成慶院江披遺候什物之覚」というものがあり、寛文九年(1669年)に成慶院から武田勝信(信清子)に什物を送ったものの受け取らなかったという事象が記録されている。「信玄公御寿像一幅逍遥軒筆」もあるらしい。
2021-05-30 09:10:21このあたり、例の畠山氏とされる伝信玄像が信玄像となり、本来の甲冑姿の信玄像が流出する経緯を想像する手掛かりになるのだけど、それはそれとして信玄没後百年を待たず成慶院の懐事情の苦しさを想像させる。
2021-05-30 09:13:58寛文十二年(1672年)信玄百回忌の際、柳澤吉保はまだ元服前ではあったが、百回忌奉加帳にその名を連ねており、また宝永元年(1704)吉保が甲斐国主となったのは信玄百三十三回忌の頃。武田勝信に什物を送り受け取らなかった(ので、目録だけを再送)30年程度後の話………とするならば。
2021-05-30 09:19:55