2021.05.30 青天を衝け(16)「恩人暗殺」放送後の町田明広先生による解説ツイート

平岡円四郎ロス
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町田 明広 @machi82175302

久坂玄瑞らは老中稲葉正邦(淀藩主)を通じて七卿・藩主父子の雪免および入京を朝幕に懇請し、また木島又兵衛らは伏見藩邸に陣取った。元治元年6月25日に久坂らは陳情書を薩摩・鳥取・仙台・肥後等の諸藩京都留守居役に送付し、上京の事由を述べて斡旋を依頼した。#青天を衝け

2021-05-30 21:03:33
町田 明広 @machi82175302

これに対し、薩摩藩等は明確に拒絶の態度を示した。元治元年6月26日、来島又兵衛は京都に潜入していた浪士も糾合して嵯峨天龍寺に駐屯し、27日に寺島忠三郎らは石清水八幡宮を占拠したため、淀川を挟んで八幡・山崎は長州藩の手に落ちた。#青天を衝け

2021-05-30 21:04:01
町田 明広 @machi82175302

そのような中で、6月23日、大坂城代大河内信古は大坂警衛諸藩および近隣諸藩に警備を沙汰し、翌24日に幕府は薩摩藩の京都留守居役に長州藩士の大坂への進出が多数になったため、淀へ出兵して京都の入り口を警衛し、粗暴な振る舞いが万一あった場合、厳重に対処すべきことを命令した。#青天を衝け

2021-05-30 21:04:24
町田 明広 @machi82175302

これに対して小松帯刀は、久光帰藩時に朝廷から相当数の御所守衛人数を残すように命じられており、また、久光からも禁裏守衛をきつく申し付けられている。時勢に緊迫度が時々刻々増しており、他方への守衛に人数を割くことはできないとして、出兵要請を拒否した。#青天を衝け

2021-05-30 21:04:49
町田 明広 @machi82175302

小松帯刀の対応は、朝政参与体制の崩壊後、薩摩藩が幕府と距離を明確に置き始めた起点として注目したい。 このように、長州藩が率兵上京したため、幕府から派兵の要求があったものの、薩摩藩としてはあくまでも長州・会津両藩の私闘と規定し、幕命を拒絶してした。#青天を衝け

2021-05-30 21:05:02
町田 明広 @machi82175302

その背景には、禁裏守衛に専心するという久光の遺策の順守があった。在京藩士の中には異論を唱える者もあったが、小松の強力なリーダーシップの下、西郷が実際には説得役となって沈静化し、次なる事態に備えて藩邸全体が泰然自若としていた。次週は禁門の変、これが背景です。#青天を衝け

2021-05-30 21:05:13
町田 明広 @machi82175302

本日の主役、平岡円四郎について、少し語っておきたい。大河ドラマでは、知られざる人物の発掘、一般への周知という期せずしての役割がある。幕末大河でいうと、「篤姫」の小松帯刀が最たる人物だが、今回の平岡円四郎もそれに匹敵する。#青天を衝け

2021-05-30 21:08:00
町田 明広 @machi82175302

一橋慶喜が歴史に名を残せたのは、平岡円四郎の活躍もあってのことである。慶喜の前半生、例えば将軍継嗣問題における慶喜擁立運動、将軍後見職時代の文久の改革、朝政参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮への就任など平岡が陰で支えていたことは数えきれないほど多い。#青天を衝け

2021-05-30 21:08:42
町田 明広 @machi82175302

一方で、平岡円四郎はそれだけの実績があるにも関わらず、その名前が歴史に埋もれていることは実に惜しいことである。これほどの重要人物でありながら、十分な史料が残されていないことも相まって、その実像がよく見えない。今回の大河は、その平岡に光が照射された。#青天を衝け

2021-05-30 21:09:16
町田 明広 @machi82175302

嘉永6年(1853)、一橋慶喜は水戸藩からの「直言の士」、すなわち、物おじせずに慶喜に諫言してくれる、頼りがいのある家臣を派遣してくれるよう、懇請する書簡を実父の斉昭に送っている。ここで白羽の矢が立ったのが、平岡円四郎であった。#青天を衝け

2021-05-30 21:11:03
町田 明広 @machi82175302

当時、平岡は昌平坂学問所の役職を務めていたが物足らず、武芸修行を口実に飛び出してしまい、その後はブラブラして世に出る機会をうかがっていたらしい。どうみても、ひねくれものの部類に属し、生まれつき人付き合いも悪く、変人扱いされていたことも不思議ではない。#青天を衝け

2021-05-30 21:11:23
町田 明広 @machi82175302

しかし、そんな平岡の本質を見抜く人物が現れる。勘定奉行の川路聖謨である。間違いなく、平岡の実父、岡本花亭との縁であろう。そうでなければ、大身の幕臣である川路が平岡に出会うことは考えにくい。#青天を衝け

2021-05-30 21:13:04
町田 明広 @machi82175302

川路は、平岡が非凡で「直言の士」であることを見込み、日ごろから水戸藩の藤田東湖や戸田忠太夫に対して、平岡の能力や人となりを吹聴していたらしい。ちょうど慶喜が、「直言の士」を斉昭に求めていた時でもあり、東湖は斉昭に平岡を推薦した。#青天を衝け

2021-05-30 21:13:38
町田 明広 @machi82175302

斉昭はその提案を受け入れ、平岡を慶喜の小姓とすることに決めた。平岡もそうそう遊んでいるわけにもいかず、取りあえずその申し出を受けることにした。しかし、本心から望んでいるわけではなく、幕臣の出世コースと言える勘定方への出仕を期待していた。つまり、乗り気ではなかったのだ。#青天を衝け

2021-05-30 21:13:55
町田 明広 @machi82175302

嘉永6年12月、平岡は一橋家に仕官して慶喜の近侍に採用された。時に平岡は32歳、慶喜は16歳であった。平岡は、生来の粗野な振る舞いを仕官後も通しており、保守的な一橋家の中では浮きまくっており、何故あのような者を側に置くのかと陰口をたたかれるなど、ひんしゅくを買っていた。#青天を衝け

2021-05-30 21:14:54
町田 明広 @machi82175302

しかし、面白いことに、その粗暴さがかえって慶喜の気を引くところとなった。まったく空気を読めない平岡に対し、慶喜はさすがにこのままではまずいと感じ、策を講じた。こうして、平岡の半分の年齢の慶喜自身が、平岡に礼儀作法を教えるという珍事が始まったのだ。#青天を衝け

2021-05-30 21:15:09
町田 明広 @machi82175302

平岡も平岡で、主君から手ほどきを受けることに疑問を感じない。慶喜は箸や椀の持ち方、飯の盛り方から食べ方など、自ら親しく平岡を教育した。平岡はこうしたやり取りを通じて、慶喜の英明さに深く心酔するようになり、これ以降は心を込めて慶喜に尽くすようになった。#青天を衝け

2021-05-30 21:15:26
町田 明広 @machi82175302

一方で、慶喜も聡明であり、かつ学問好きな「直言の士」、平岡を次第に重用することになった。こうしたことから、ドラマのように相思相愛な主従関係であったことが伺える。元治元年2月、平岡は側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並、6月2日に慶喜の請願により太夫、近江守に叙任していた。#青天を衝け

2021-05-30 21:16:25
町田 明広 @machi82175302

しかし、6月16日に在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らによって暗殺された。本日の暗殺場面は、過去の暗殺の描写に比して、出色の演出ではなかったか、それほど胸を打った。平岡円四郎、享年43、働き盛りの年齢である。円四郎ロスが始まる😭 #青天を衝け

2021-05-30 21:16:56
町田 明広 @machi82175302

JBpressの最新記事、「渋沢栄一と時代を生きた人々」の最新連載、平岡円四郎(全3回)の2回目が明日24日(月)朝6時に公開されます。平岡です!ご味読をどうかよろしくお願いいたします。なお、1回目はこちらです。jbpress.ismedia.jp/articles/-/653… #青天を衝け

2021-05-30 21:18:48
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、平岡の死に大いに落胆悲憤したものの、黒川嘉兵衛が代って一橋家の主席用人として渋沢を平岡同様に処遇し、渋沢もまた発奮して職務に精励した。渋沢は9月に上京したため、禁門の変時には京都に不在であり、同月末、御徒歩に昇進(俸禄8石2人扶持、在京月手当金6両)した。#青天を衝け

2021-05-30 21:20:10
町田 明広 @machi82175302

それにしても、本日の池田屋事件、町田啓太さんの殺陣の見事さが際だった感じ😲池田屋事件については、『池田屋事変始末記―新選組と吉田稔麿』(1975年)、『新選組・池田屋事件顛末記』(2001年)など、冨成博先生に大変にお世話になった。 amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%8… #青天を衝け

2021-05-30 21:23:40
町田 明広 @machi82175302

池田屋事件の最高峰は、中村武生さんの『池田屋事件の研究』(講談社現代新書)である。既に初版から10年、改訂版を期待したい。 amazon.co.jp/%E6%B1%A0%E7%9… #青天を衝け

2021-05-30 21:24:00
町田 明広 @machi82175302

拙稿「池田屋事変における吉田稔麿について」(霊山顕彰会 / 霊山顕彰会霊山歴史館 〔編〕 『霊山歴史館紀要』16号、2003年4月)ですが、改稿して「池田屋事変における吉田稔麿」(マツノ書店『松陰先生と吉田稔麿・増補版』)に掲載いただきました。後者をご覧ください。#青天を衝け

2021-05-30 21:24:21
町田 明広 @machi82175302

なお、拙稿「池田屋事変における吉田稔麿」の内容ですが、これまでの描かれ方を概観し、事件の実相とも言える、稔麿が池田屋事変時に池田屋に居なかった新事実を論証しています。#青天を衝け

2021-05-30 21:24:50