2021.06.06 青天を衝け(17)「篤太夫、涙の帰京」放送後の町田明広先生による解説ツイート

本日は「青天を衝け」17回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け
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町田 明広 @machi82175302

小松帯刀は、藩士の活躍などを個々に挙げ、西郷も小松の指揮の下、足に怪我をしながら自身の部隊を統率したと伝える。「其外一統之働も格別ニ御座候」と、藩主父子からの褒賞を懇請した。更に、久光の上京や更なる派兵は状況が流動的であるとして、暫時見合わせることを進言した。#青天を衝け

2021-06-06 21:09:52
町田 明広 @machi82175302

西郷隆盛も同様に、鹿児島にいる大久保利通宛に書簡(7月20日)を発して禁門の変の状況を伝えた。これによると、「此度之薩勢之鋒、衆人之耳目を驚し候事共ニ而大慶之儀ニ御座候」と薩摩藩の武威を強調する。#青天を衝け

2021-06-06 21:12:40
町田 明広 @machi82175302

西郷隆盛は続けて、「鳳輦を奉奪候謀計ニ而、実ニ薩兵ハあらすんハ危き次第ニて御座候」と、長州藩による孝明天皇を奪う謀略の存在を認め、薩摩藩の精兵がなければ危機的状況であったと、切迫した情勢を大久保利通に伝えた。#青天を衝け

2021-06-06 21:13:01
町田 明広 @machi82175302

西郷隆盛は、「此度ハ御所江向ひ砲発いたし候付而ハ、天下之人望を失ひ候而已ならす、大逆之罪を得、其上異人と和議を結ひ、旁是迄之詐謀一時ニ相顕、天罰を蒙り候事共ニ御座候」と、御所に向かって発砲したことにより、長州藩は天下の人望を失うのみならず、大逆の罪を被ったと指弾した。#青天を衝け

2021-06-06 21:13:26
町田 明広 @machi82175302

西郷隆盛は大久保利通に対し、外国と和議を結ぶ(誤報)など、これまでの詐謀が一気に露見してしまい天罰を受けたと、長州藩に対する憎悪を披瀝した。ここから、長州征伐に向けた西郷の強硬論に直結したことが分かる。薩摩藩VS長州藩の構図は抜き差しできないレベルに昇華したのだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:13:53
町田 明広 @machi82175302

ちなみに、小松帯刀や西郷隆盛は大久保利通宛に書簡を発していますが、島津久光がそれを読むことが前提となっています。流石に、殿宛に直接手紙は書けないのです。#青天を衝け

2021-06-06 21:15:35
町田 明広 @machi82175302

元治元年(1864)5月、渋沢栄一は渋沢喜作と共に人選御用(一橋家家臣の取立)のため関東に下向した。当初、千葉道場の門下生などの旧知の勧説を企図するも、多くが天狗党の乱に加勢するため出払っており不首尾であった。このあたり、念のため復習も兼ねて。#青天を衝け

2021-06-06 21:17:26
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一らは、関東一円(武蔵国・下総国・上総国)の一橋領を100余日も巡回し、壮士約50人を募り9月に中山道を率いて上京している。江戸到着時、尾高長七郎の救解に尽力するも不成功であった。一橋家家臣としても、現行犯逮捕の長七郎は救えなかったのだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:17:52
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、故郷である血洗島を訪問したかったが、岡部陣屋に不穏な雰囲気があるため帰省を諦め、他所で密に父および妻子に面会している。岡部藩にしてみれば、自藩の元農民であった渋沢らを受け入れることは、メンツからも許しがたいことであったろう。#青天を衝け

2021-06-06 21:18:07
町田 明広 @machi82175302

本日から伊藤博文、井上馨が登場。ちょうど1年前、NHKのEテレ「知恵泉」の伊藤博文の回にスタジオゲストで出演したことを思い出しました。ちなみに、「BS歴史館」の長州ファイブの回も、スタジオゲストで呼んでいただきました。#青天を衝け

2021-06-06 21:21:22
町田 明広 @machi82175302

本日から伊藤博文、井上馨が登場。彼らは長州ファイブとして、文久3年にロンドンに密航留学している。リーダー格の井上馨は、通商条約の破棄に向けた即時攘夷を実行しながらも、実際に対等な通商条約を結び直すには、西洋の文明、特に軍事技術を習得する必要があると判断した。#青天を衝け

2021-06-06 21:23:14
町田 明広 @machi82175302

井上馨による長州ファイブ結成は、未来攘夷のためではなく、あくまでも目前にあると信じる通商条約の再締結のためであり、一見矛盾した即時攘夷と海外渡航という2つの方向性は矛盾していないと考えられていたのだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:23:36
町田 明広 @machi82175302

文久3年(1863)5月12日、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り英国留学のため横浜から密出国した井上馨(28歳 小姓役)、遠藤謹助(27歳 壬戌丸乗組)、山尾庸三(26歳 壬戌丸測量方)、伊藤博文(22歳 京邸内用掛)、野村弥吉(井上勝、20歳 壬戌丸船将)が長州ファイブである。#青天を衝け

2021-06-06 21:24:27
町田 明広 @machi82175302

長州ファイブは、新生明治日本の建設にそれぞれ役割を果たした。井上は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、野村は鉄道の、それぞれ「父」と呼称され、全員が日本の近代化を担う活躍をすることになる。伊藤・井上以外の3人にも注目して欲しい。#青天を衝け

2021-06-06 21:24:51
町田 明広 @machi82175302

長州ファイブについて、手前味噌で恐縮ですが、拙著『グローバル幕末史』に詳しいです。#青天を衝け amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%8…

2021-06-06 21:26:15
町田 明広 @machi82175302

長州ファイブの誕生についてもう少し。安政5年(1858)の日米通修好商条約の調印を期に、即時攘夷主義が台頭した。一方で井上馨は攘夷実行後の日本が欧米列強のような強国になるため、今からその軍事技術や様々な文物を吸収した「生きたる器械」の必要性を唱え藩はイギリス渡航を黙認した。#青天を衝け

2021-06-06 21:27:17
町田 明広 @machi82175302

長州ファイブはロンドンでの留学生生活を開始したが、1863年10月21日(文久3年9月9日)のロンドンタイムズの中に驚くべき情報を発見した。長州藩による下関での外国船砲撃事件と薩英戦争の詳細な経緯が記されていたのだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:27:39
町田 明広 @machi82175302

しかも、英仏米蘭の四ヶ国が長州藩を砲撃するための最終協議をしているという衝撃的な文言が目に飛び込んできた。井上と伊藤が帰国したのは、元治元年(1864)6月10日前後であり、井上らは志半ばという断腸の思いで、しかし、我が国の危機を救うために帰国の道を選択したのだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:28:15
町田 明広 @machi82175302

元治元年6月10日頃、伊藤博文と井上馨は横浜に到着し、ガウワーに会って急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは英仏蘭米4カ国が下関を襲撃する計画がある事を告げた。伊藤らは長州藩の安危に関する大事件と改めて認識した。#青天を衝け

2021-06-06 21:29:51
町田 明広 @machi82175302

英国公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコックと会見し、自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明、停戦講和を懇請した。オールコックは、フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して回答するから数日間、居留地のホテルに宿泊して待てと命じた。#青天を衝け

2021-06-06 21:30:41
町田 明広 @machi82175302

オールコックは更に、その際に長州人と分からないように、日本語を使ってはならないと申し渡した。伊藤と井上は、ホテルのボーイらが、「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ているが、ケチで金銭を使わないことには驚いた」と噂された。ポルトガル人に間違えられたのだ!#青天を衝け

2021-06-06 21:31:40
町田 明広 @machi82175302

ホテルのボーイらは、伊藤らが「金銭を使う道をしらぬのではあろうが、彼等2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、日本語が分からないものと思って勝手な事を話していたようだ。#青天を衝け

2021-06-06 21:32:01
町田 明広 @machi82175302

その後、オールコック英国公使から連絡があり、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいとして、伊藤らは藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。そして、6月18日、英国艦に乗り豊後姫島まで送られる。#青天を衝け

2021-06-06 21:32:43
町田 明広 @machi82175302

伊藤博文と井上馨は、藩要路とオールコック英国公使の間を行き来して、武力衝突の回避を画策した。このあたりが、本日の冒頭の場面であろう。#青天を衝け

2021-06-06 21:33:54
町田 明広 @machi82175302

伊藤博文と井上馨は、藩要路とオールコック英国公使の間を行き来して、武力衝突の回避を画策したが交渉は時間切れとなり、四国艦隊下関砲撃事件(元治元年8月)を阻止することに失敗した。事件後、講話談判では使節宍戸刑馬(高杉晋作)に従い、通訳を務めた。#青天を衝け

2021-06-06 21:36:01