小林康夫・船曳建夫『知の技法』読書メモ

かつて東大教養学部「基礎演習」で用いられていたテキスト。小林康夫、柴田元幸、小森陽一、松浦寿輝など豪華執筆陣。
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かんた @0sak1_m1d0r1

人間は誰でも「知りたい」という好奇心を持っていますが、それがただ対象についての情報を得ることに止まっているうちは、まだ、学問的な知にはならない。そうではなくて、

2021-07-05 12:05:11
かんた @0sak1_m1d0r1

その好奇心が、より一般的な問いかけに結びつき、そこに一般可能な問題が立ち現れるときに、はじめて学問的な知の行為がスタートします。 (小林康夫/船曳建夫 編『知の技法』8)

2021-07-05 12:05:18
かんた @0sak1_m1d0r1

サバンナの農民がその自然環境との相互交渉の上にそこで暮らす実践的知識を獲得しているとしたら、そこで即席で地図をこしらえた文化人類学者の「実践的」知識はもっぱら「紙の上」で鍛えられ上げたもの、ということになります。そして、一見さりげない「紙の上の実践的知識」は

2021-07-07 16:20:27
かんた @0sak1_m1d0r1

恐ろしく複雑で錯綜した土台―システムと呼んでもいいでしょう―の上に成り立っているのです。 (中村雄祐「フィールドワーク」『知の技法』p23)

2021-07-07 16:22:19
かんた @0sak1_m1d0r1

けれども、翻訳の「現場」で作業する者にとっては、翻訳で100パーセントを伝えるのが不可能であることよりも、ひょっとすると99パーセントなら可能かもしれないことのほうがはるかに大事であり、

2021-07-07 21:36:21
かんた @0sak1_m1d0r1

翻訳において原文の90パーセントなり80パーセントなりが伝わってしまうことのほうがずっと大きな驚きなのです。 (柴田元幸「翻訳」『知の技法』63)

2021-07-07 21:36:57
かんた @0sak1_m1d0r1

ついでにいえば、大学生はきちんと自分の目的意識ももって勉強や生活をしなくてはいけない、という言い方も有害だと思います(まあそんなことを本気で聞く大学生はほとんどいないだろうから、有害といっても大したことはないのですが、でも、

2021-07-07 21:48:07
かんた @0sak1_m1d0r1

文章を読む段になると、結構みんな本気で「目的意識」を持ち出すので困ります)。 (柴田元幸「翻訳」『知の技法』68)

2021-07-07 21:50:50
かんた @0sak1_m1d0r1

そうすると、前後関係を因果関係として解釈する場合にも、ある一定の習性が枠組として機能していることがわかります。ここでは、外界の、しかも無関係な、他人の行為の原因になることはない、という常識的な発想が枠組になっています。 (小森陽一「解釈」『知の技法』81) 『それから』冒頭の

2021-07-07 22:16:01
かんた @0sak1_m1d0r1

「誰かの足音がした」と「代助が宙吊りの下駄の夢をみた」という二つの出来事は、同時に起こっているにもかかわらず、文学的表現の制約上、線的な時間の流れでしか表現できない。だが、読者はそれをしらずしらずの内に「足音がしたから夢をみたから夢をみた」と解釈してしまう、という話。面白いな。

2021-07-07 22:21:34
かんた @0sak1_m1d0r1

つまり代助は、三千代が出産後に心臓病にかかったことだけは知っていて、治ったことは知らなかったということになります。そうすると、代助が胸に手を当てて心臓の鼓動を気にしはじめたのは、あるいは三千代のことが気がかりだったからかもしれません。 (小森陽一「解釈」『知の技法』85)なるほど。

2021-07-07 22:39:17
かんた @0sak1_m1d0r1

もし冒頭の椿が赤だとすれば、『それから』という物語は、代助が頭の中が赤を拒否しつつも、次第に、そして最後には決定的な形で赤に満たされていく物語ということになります。逆に白だとすれば赤を拒否し、白にひかれていた代助の頭の中が、どこかで大きな変容を被り、赤を受け入れるようになった、

2021-07-07 22:46:57
かんた @0sak1_m1d0r1

という全く別の物語になってしまいます。つまり、『それから』という物語全体を解釈の枠組が決定的に違ってしまうということになるのです。 (小森陽一「解釈」『知の技法』88) すごいな、めちゃくちゃ面白い。これが僕がやりたい文学研究なんだな。(ちなみに漱石だと『それから』が一番好き)

2021-07-07 22:49:33
かんた @0sak1_m1d0r1

「ヌード」は「覆い」がないからこそ「ヌード」なのですから、この対象はすでにあらかじ《discover》されてしまっているというわけです。ここにはもはや、改めて発見されるべきものなど残っていない。ここに至って、

2021-07-08 12:08:41
かんた @0sak1_m1d0r1

マドンナのヌード写真集は、発見されることを拒む特権的な対象として立ち現れてくることになるのです。 (松浦寿輝「レトリック」『知の技法』131)

2021-07-08 12:10:10
かんた @0sak1_m1d0r1

<知>の今日の課題とは、前述してきたような「意味」や「イデオロギー」を発見したり解読したりしようと努めることよりはむしろ、そうした「意味」や「イデオロギー」が不意にかき消え、発見するべきものが何もなくなって、ただ剝き出しの「裸」だけが露出してしまうという出来事が不意に生起したとき

2021-07-08 12:20:15
かんた @0sak1_m1d0r1

そうして瞬間に絶えず鋭敏に感応しうる繊細な感性を鍛えあげる方へ移りつつあるのではないかと思うのです。 (松浦寿輝「レトリック」『知の技法』p133)

2021-07-08 12:22:11
かんた @0sak1_m1d0r1

江戸時代には悪口が個人に投げつけられることはあっても(助六は敵役、意休に悪口を意図的に投げつけたが)、日本人全体を罵倒することは明治時代以降、国民国家の成立の後にのみありえることであった。 (大澤吉博「比較」『知の技法』177) 考えてみりゃ当たり前だけど、少し驚く

2021-07-09 21:45:03
かんた @0sak1_m1d0r1

身体的特徴としては、白人種のように顔に彫りがなく、のっぺらぼうとした顔つき。精神的特徴としては自我が感じとれない精神未発達の個人。その「美的欠陥」と「精神的欠陥」はその後の日本人の脳裏に付きまとって離れない妄想となった。 (大澤吉博「比較」『知の技法』177) 今でもそうやろうな。

2021-07-09 21:50:32
かんた @0sak1_m1d0r1

他方、そうした指摘は、彼らの基本的なヨーロッパ中心主義を、ヨーロッパの美的基準を問いなおしてはいないと言える。なぜそうした無理を重ねて、ヨーロッパ文化を取り入れようとしているのかという問題を、単に非ヨーロッパ人の側の問題としてしか捉えていない。 (大澤吉博「比較」『知の技法』181)

2021-07-09 21:57:09
かんた @0sak1_m1d0r1

そもそも、個々人のレベルでも決して多様性は消滅していないのだ。むしろ、「個」の多様性・多元性が、地域認識あるいは世界認識の出発点にならなければならない。 (山影進「関係」『知の技法』202)

2021-07-17 11:35:19