2021.08.22 青天を衝け(25)「篤太夫、帰国する」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

2021.08.22 22:53更新 2021.08.23 23:40更新  渋沢成一郎、渋沢平九郎、静寛院宮、天璋院らにフォーカスした解説ツイート
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桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」渋沢成一郎について。文久年間、従弟の栄一とともに攘夷急進派だった渋沢喜作こと成一郎は徳川慶喜の家来になって以来、幕臣として幕権維持の立場に転じ、主君慶喜の大政奉還にも反対して、御三家や親藩(福井藩、会津藩など)への周旋活動に乗り出した。#青天を衝け

2021-08-22 22:15:18
桐野作人 @kirinosakujin

渋沢成一郎は奧右筆格兼御政事内務掛という慶喜の秘書官的な役職を利用して、大政奉還の撤回を各方面に説いてまわった。福井藩士中根雪江の『丁卯日記』には、大政奉還から1カ月後の慶応3年(1867)11月11日、尾張藩の犬山成瀬隼人正の家老が中根を訪れて、渋沢には困ったと中根に語った。#青天を衝け

2021-08-22 22:15:18
桐野作人 @kirinosakujin

渋沢成一郎が若年寄永井尚志の内旨として、成瀬隼人正に御三家と親藩の兵力があれば政権は取り戻せると将軍慶喜への諷諫らしきものを述べたという。成瀬家では今さら政権を取り戻しても討幕論が再燃するは必定だと答えた。尾張藩では渋沢が永井の内旨だと語ったことを当人に確認した。#青天を衝け

2021-08-22 22:15:18
桐野作人 @kirinosakujin

永井尚志は尾張藩に対して、政権取り戻しは考えたことがない、上様に従うのみと答えた。尾張藩も福井藩も、渋沢が幕閣の名をかたっていたことが判明。ついでに、成瀬家は中根に「こうなっては、会津藩が(政権返上の)邪魔になっているので、体よく帰国させる手段がないかと語る。#青天を衝け

2021-08-22 22:15:19
桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」渋沢成一郎② その後の渋沢成一郎、鳥羽伏見の戦いでは慶喜の命で京都に残っていたが、幕府軍が大敗したことを知って、大坂に向かった。ドラマでは成一郎が負傷したと述べていたが、大坂に下る途中か。慶喜が江戸に帰ったのち、成一郎は残兵の撤退に奔走。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:28
桐野作人 @kirinosakujin

紀州藩で幕兵のために便船の手配をしたり、三河吉田藩に数日滞在して、続々とやってくる幕兵の東帰に尽力した。江戸に帰ったのは2月4日のこと。その後、成一郎は幕臣の糾合を謀る。だが、小石川の伝通院での会合ではわずか数人しか集まらず、改めて円応院で結集を図った。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:28
桐野作人 @kirinosakujin

円応院には67名が結集し、成一郎の提案で3カ条を決して血判した。血判の第一は成一郎、第二は天野八郎だった。その夜、成一郎は天野と義兄弟の盃を上げている。2月23日、築地本願寺で結成式を行う。隊名について「貫義」「昭義」「彰義」の3案あり、衆議で「彰義」決した。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:29
桐野作人 @kirinosakujin

彰義隊は25名を一組とし、投票で組頭を決めた。頭取は成一郎、副頭取が天野八郎となる。彰義隊結成が幕閣にも聞こえ、総裁の松平確堂から呼び出される。成一郎は100名ほどを率いて登城。乱暴者という噂を質されると、決して無謀の者ではないと釈明し、隊名を承認された。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:29
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマでは、徳川慶喜の水戸退隠の場面あり。成一郎ら彰義隊は千住、松戸あたりまで見送ったというが、慶喜がそばに近づけなかったため、遠くからの見送りだったともいう。 成一郎が彰義隊の頭取だったのに離脱したのはなぜか。成一郎は江戸市中で政府軍を迎え撃つのは不利だと判断。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:29
桐野作人 @kirinosakujin

日光あたりで迎撃すべしと考え、軍資金の調達を図った。一方、彰義隊のなかには「両御番席」の格を得られると信ずる者が多かった。おそらく書院番組や小性番組のことだろう。とすれば、彰義隊に結集したのは下級幕臣が多かったか。この面々は昇格をあてにして江戸に残ることを望んだ。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:30
桐野作人 @kirinosakujin

彼らの支持を集めたのが天野八郎だった。成一郎と天野は反目して両派の対立となり決裂に至る。成一郎は天野派から殺害されそうにもなった。天野派は上級幕臣を頭目に据えて彰義隊として上野の山に立てこもる。 一方、成一郎は志を同じくする者を従え、振武軍を結成して飯能に向かう。#青天を衝け

2021-08-22 22:51:30
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」渋沢平九郎。飯能戦争はよく知らないので『復古記』東叡山戦記から紹介。 渋沢成一郎が当初の主張どおり日光に向かわなかったのは軍資金を調達できなかったか、日光街道を封鎖された ためか。それで比較的近場で地の利のある所として武州奥地を選んだのだろうか。#青天を衝け

2021-08-22 23:42:52
桐野作人 @kirinosakujin

慶応4年(1868)5月15日、彰義隊は上野で壊滅した。同23日、大総督府は武州青梅付近の賊兵討伐のため大村、筑前、筑後、佐土原の諸藩に掃討を命じる。 一方、成一郎や尾高惇忠、平九郎らは田無(現・西東京市)で振武軍を結成、箱根ヶ崎(瑞穂町)に本営を置いたが、5月18日飯能に入る。#青天を衝け

2021-08-22 23:42:53
桐野作人 @kirinosakujin

飯能戦争は5月23日。振武軍の兵力はよく知らないが、備前藩の史料に「青梅賊徒350人」とあるのがそうかもしれない。政府軍は上記の4藩のほか、芸州、前橋、忍、久留里などの諸藩兵も加わる。平九郎を討ち取ったのは芸州藩のようだ。#青天を衝け

2021-08-22 23:42:53
桐野作人 @kirinosakujin

芸州藩の「浅野長勲家記」には「同23日暁より飯能にあたり砲声が頻りに聞こえたので、持ち場を堅固に守っていたところ、それ以上賊徒が落ちてこなかった。2里ばかり北の今市という所に昨夜賊徒が集まっていると聞こえたので、忍藩と申し合わせ、ただちに今市に進んだところ、#青天を衝け

2021-08-22 23:42:54
桐野作人 @kirinosakujin

今暁賊徒3.400人ばかり出立したというので、飯能の攻め手に合流しようと同所を出発、坂戸へ向かう途中、黒山という所で、賊の敗卒に出会い、すぐさま攻めたところ、賊徒はみな争って逃げ去り、1人討ち取った。我が隊の従卒2名が負傷した」 平九郎が戦死したのは黒山なので、この戦闘か。#青天を衝け

2021-08-22 23:42:54
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」静寛院宮。ドラマでは天璋院と静寛院宮という2人の女性が協力して徳川家存続に動き出す。事実、2人の手紙作戦は功を奏した。天璋院は前薩摩藩主島津斉彬の養女。静寛院宮は孝明天皇の妹。実家との縁や新旧の将軍御台所の地位を最大限に活用したのである。#青天を衝け

2021-08-23 10:37:31
桐野作人 @kirinosakujin

静寛院宮は14代将軍家茂の御台所だった和宮のこと。ドラマでは、彼女が徳川家存続を嘆願する書簡を京都御所で岩倉具視が読んでいた。その書簡はおそらく、彼女が1月20日、母方の実家、橋本実麗・実梁父子に送った書簡だろう。実梁(近衛少将)は東海道先鋒総督で江戸へ向かっていた。#青天を衝け

2021-08-23 10:37:32
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマで、静寛院宮が「慶喜のことは身から出たサビでどのように処分されてもかまいませんが、慶喜ひとりのため朝敵の汚名を受け、御家断絶になるなら、私も死を選ぶほかない」と非常な覚悟を綴っていた。実際、橋本実梁宛て書簡にも「慶喜の不行き届きゆえ、慶喜一身は #青天を衝け

2021-08-23 10:37:32
桐野作人 @kirinosakujin

どのように処分されてもかまいませんが、何とぞ家名が立ちゆくよう幾重にも願いたし」と嘆願しつつ、「私も当家滅亡を見つつ、命を永らえているのは残念なので、きっと覚悟を致す所存です」と自刃を匂わせている。これを読んだ岩倉具視がひどく動揺していたのも当然だった。#青天を衝け

2021-08-23 10:37:33
桐野作人 @kirinosakujin

岩倉は文久元年(1861)の和宮降嫁を実現した一人だったから、もし静寛院宮が自刃でもしたら、自分の責任だとおののいてもおかしくなかった。 一方、ドラマではなかったが、勝海舟も西郷吉之助との談判で、静寛院宮と天璋院がどうなってもいいのかと、2人の女性を交渉材料に使っている。#青天を衝け

2021-08-23 10:37:34
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」天璋院。天璋院は薩摩藩前藩主島津斉彬の養女で、13代将軍家定の御台所。維新前後は徳川家の女家長的な地位にあった。ドラマでは、江戸に逃げ帰ってきた慶喜に「ちゃちな御方」と痛烈批判。「ちゃち」は今風の言葉に見えるが、江戸時代に使われていた。#青天を衝け

2021-08-23 12:38:27
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマの天璋院は「父(島津斉彬)から天下のため将軍後継に推すよう申しつかってきましたが、これほどちゃちな御方とは。武士の棟梁として潔くお腹を召されませ」と慶喜に引導を渡した。台詞が最初「将軍後見」と聞こえたので違うと思って録画を聞き直したら「将軍後継」にも聞こえた。#青天を衝け

2021-08-23 12:38:27
桐野作人 @kirinosakujin

天璋院の書簡をこれまたゆかりの深い西郷吉之助が読んで「困った」とつぶやいていた。ただ、映像にも映ったように、この書簡、宛所は「隊長え」となっており、薩摩藩の先手隊長宛てで西郷に宛てたものではないが、当然西郷も読んでいる。天璋院もまた静寛院宮同様、なかなかの胆力である。#青天を衝け

2021-08-23 12:38:28
桐野作人 @kirinosakujin

天璋院は慶喜の将軍就任には反対だったと述べる。理由は「これまで黙っていたけれど、当人(慶喜)の様子から兼々私の心底に違和感があった」と。だけど、「世嗣となったからには、(徳川)家の障りになるようなことはよもやすまいと思っていたが、まさか朝敵の御沙汰を蒙るとは」と嘆く。#青天を衝け

2021-08-23 12:38:29