ぼのぼの氏が語るチェーホフと映画『ドライブ・マイ・カー』
そもそもワーニャの喜劇的要素、具体的にはワーニャの「イタい中年」としての滑稽さを描く部分は、主に第一幕や第二幕(特に第二幕)にある。しかしこの作品には、それに該当する部分がほとんど無い。これは作品の本筋との関連上致し方ないことで、その辺のエピソードを無理に入れたら物語が迷走する。
2021-09-23 13:51:46強いて言うなら、第三幕の「俺はショーペンハウエルにもドストエフスキーにもなれたんだ」という台詞は、滑稽であり、かつ悲しい、ワーニャの真骨頂とも言える台詞だが、それはそこに至るまでの文脈があってこその話。あそこだけ特別滑稽さを際だたせたら、明らかに作品のトーンが狂う。
2021-09-23 13:51:46あとは(演じているのは高槻だが)ワーニャがセレブリャーコフを撃ち殺そうとする場面は、普通もっとドタバタした感じに描くもので、あんなシリアスな描写は初めて見たが、それについては「今のだとワーニャはセレブリャーコフを殺せているな」と突っ込みが入り、メタ的に笑わせるので、あれで正解。
2021-09-23 13:51:47具体的な上演の描写は、第三幕と第四幕がほとんど。しかしこれまでに見たどのワーニャでも、先に述べた2場面を除けば、このあたりで喜劇性を特に強調した上演は見たことがない。ラストのソーニャとの場面は言わずもがなだ。
2021-09-23 13:51:47ラストのソーニャとの場面にどう喜劇性を入れろと言うのだろう(その前のセレブリャーコフの「諸君、仕事をしなければなりませんぞ」は完全に喜劇)。そう考えていけば、この映画の中で見られる『ワーニャおじさん』に喜劇性が欠けているというのは、かなり不当な批判だと分かってくる。
2021-09-23 13:51:48また、さらに言えば『ワーニャおじさん』をそこまで喜劇として上演する義務はあるのか?という根本的な問題も出てくる。すでに述べたように、今ではチェーホフ劇は「喜劇」として上演されるのが正解であり、シリアスな悲劇として上演すると、それだけで解釈が古臭いと否定的に見られてしまう。
2021-09-23 14:13:49しかしここには2つの誤解があるように思う。まず1つ。『かもめ』と『桜の園』はタイトルの扉に「四幕の喜劇」と明確に書かれている。少なくとも作者はこの2作を喜劇と指定しているわけだ。しかし『ワーニャおじさん』は「四幕の田園生活劇」となっている。喜劇とは指定されていないのだ。
2021-09-23 14:13:50もちろんこれまで述べてきたように、ワーニャにも十分過ぎるほどの滑稽さ、喜劇性はある。それを浮き彫りにするのはいい。しかし、取り立てて喜劇性の無い場面(この映画で描かれた場面の大部分)を無理に喜劇的に演出する必要はない。
2021-09-23 14:13:50どうも昨今の「チェーホフは喜劇として上演すべし」という、日本演劇界の強迫観念は、チェーホフが『かもめ』のシリアスな上演に対し「もっとテンポを早くしないと」とスタニスラフスキーの演出に不満を述べていた逸話が、過大評価されすぎているせいでは。
2021-09-23 14:13:50ちなみに上の逸話は、大失敗に終わったとされるアレクサンドリンスキー劇場での初演ではなく、演出を一新して大成功を収めたモスクワ芸術座での再演に対する不満。どうもこの辺で、「チェーホフを伝統的な演出で上演するのは作者の意図に反した邪道」という思い込みが膨らんでしまったような気がする。
2021-09-23 14:13:51しかし上はあくまでも『かもめ』に関する話であり、『ワーニャおじさん』に関する話ではない。馬鹿の一つ覚えのように「チェーホフは喜劇として上演すべし」という硬直した考え方は、むしろ非チェーホフ的なものに思える。
2021-09-23 14:13:51誤解の2つ目。小説も含めてチェーホフをある程度読んでくれば分かる通り、彼のユーモア感覚には独特な、はっきり言えばかなりねじくれたところがあり、「喜劇」と言っても、ごく普通の人がイメージする「喜劇」とは少し違うだろうということだ。
2021-09-23 14:51:55それを普通の喜劇のような大袈裟な演技、滑稽なアクション、いわゆるギャグなど、いかにもな笑いを取る演出で上演すると、これが見事に滑る。そんな居たたまれない上演を、これまでに一体何度見せられてきたことか… (´Д`)
2021-09-23 14:51:56そういうものも味付け程度にはあっていいが(この映画中のゴド待ちのズボンの演出とかいい感じ)、いかにもな感じで強調し「はい、喜劇的にやってますよ」という免罪符を得るのは、あまりにダサい。それはおそらくチェーホフが意図したことではないと思う。
2021-09-23 14:51:56ではどういうものがチェーホフ的ユーモア(喜劇性)かと言うと、本人は真面目にやっているつもりなのに周りから浮いて空回りしている感覚。真面目に話しているのに、それがコミュニケーションの食い違いで本来の意図とずれてしまう感覚。そういう皮肉な笑いだ。
2021-09-23 14:51:57つまり「ガハハハハ」という笑いではなく「クスッ」「クスクス」というタイプの笑い。ストレスを発散するような笑いではなく、むしろ世の中に対する違和感を増幅させるような笑い…もちろん人によっていろいろ意見はあろうが、私はそんな風に考えている。
2021-09-23 14:51:58たとえば「本人は真面目にやっているつもりなのに周りから浮いて空回りしている感覚」で言えば、すでに述べた『ワーニャおじさん』の「仕事をしなければなりませんぞ」の台詞などはその典型。「言ってることは正しいが、お前が言うか!ww」というあの感覚、あれがチェーホフ的ユーモアの真骨頂だ。
2021-09-23 14:51:58様々な意味で『三人姉妹』をチェーホフの最高傑作だと思う理由の1つは、その手の滑稽さが、もはや笑うこともできない(←何と言う皮肉な矛盾)極限まで研ぎ澄まされた形で描かれているから。たとえば第二幕の軍人たちの会話は、珠玉と言う他無い、人生の至言に満ちた名台詞の洪水だ。
2021-09-23 14:51:591つ1つの台詞は、深く、鋭く、人生の真実を表している。ところがこの場面、「会話/対話」として見ると、明らかに変なのだ。誰かがこれほど哲学的な名台詞を吐いているというのに、話し相手は、それとは微妙にずれた返答をしている。独り言にはなっていても、会話/対話として成立していない。
2021-09-23 14:51:59相手がどんなに素晴らしい言葉を発していても、登場人物は自分の目の前の問題に精一杯で、ちゃんと他人の話を聞いていない。そのすれ違いと空回りの滑稽さ、ディスコミュニケーションの絶望と悲しみ…あれがチェーホフ。あれこそがチェーホフなのだ。
2021-09-23 14:52:00言うまでもなく、このテーマは『ワーニャおじさん』にも映画『ドライブ・マイ・カー』にも通底している。イ・ユナの「私にとって自分の話がうまく通じないのは日常です。特別優しくしたり気を使ったりしないでください」という手話の台詞は、そんなチェーホフ的状況に対する1つの回答だ。
2021-09-23 14:52:01だから、チェーホフの「喜劇」を明らかに誤解した形で無理矢理喜劇的に上演した作品も、作品自体は非チェーホフ的だが、そのディスコミュニケーションの滑稽さは、優れてチェーホフ的だったりする。チェーホフは、そういうところが実に意地悪い。
2021-09-23 14:52:01しかし私の考えるチェーホフ像が正しかったとしても、これを舞台上で実際に表現するのは至難の業であり、ほとんどの舞台において、戯曲を読む以上の感動を味わえないのも致し方ない部分はある。『ワーニャおじさん』はそれでも一番成功しやすい作品で、『三人姉妹』はほとんどが酷い出来。
2021-09-23 15:02:12だからこそ、ワーニャとソーニャのラストを全く思いがけない方法論で、戯曲以上の説得力を持ってスクリーン上に提示してくれた…その一点だけ取っても、私はこの映画を心から愛さずにはいられない。
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