ぼのぼの氏が語るチェーホフと映画『ドライブ・マイ・カー』

映画『ドライブ・マイ・カー』で描かれたチェーホフ『ワーニャ伯父さん』について、映画・演劇両方に精通するぼのぼの氏(@masato009)が分析した考察。ネタバレや脱線部分は(個人的には大好きですが)割愛させていただきました。
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ぼのぼの @masato009

4.いずれにせよ演劇は、演出家個人の表現ではなく集団芸術である。最終的な交通整理は演出家の役目だとしても、俳優たちにプロとしての敬意を払い、彼らのアイデアを最大限に生かして面白いものを作ることが、演出家としての義務でありモラルでもある。

2021-09-23 00:23:40
ぼのぼの @masato009

実際には、この4つの要素が混ざり合っているのだろうと思う。何にせよ、あの棒読みで本読みを続けるスタイルは強固な演出家主導であり、俳優からは反発を受けやすい。演出家の指導力や、俳優との人間関係など、いろいろな問題も絡んできて、現実には非棒読みスタイルの方が主流なのだと思う。

2021-09-23 00:23:40
ぼのぼの @masato009

そしてこうやって書き並べると、どちらにも一長一短がある。どらちがベターなやり方なのかは、その演出家のポリシーや、作る作品の内容によって変わってくることだろう。

2021-09-23 00:23:40
ぼのぼの @masato009

と言うことで、現実の演劇における棒読みの効用は大体分かってきたのだが、「この映画においてその方法論が強調された意味」について、もう少し考える。

2021-09-23 00:23:41
ぼのぼの @masato009

まず気がついたのは、この映画自体、思い入れたっぷりな台詞回しがなく、おそらくあのような棒読み稽古から生まれた役と役の関係性に、最終的に色を加えた程度の簡素な台詞回しに支配されているということだ。

2021-09-23 00:23:41
ぼのぼの @masato009

もちろんこの映画の稽古が、あのような徹底した本読みから始まったのかどうかは知らない。映画では、演劇以上にそういう作り方はしにくいのではないかと思う。

2021-09-23 00:23:42
ぼのぼの @masato009

ただ、実際にそのような稽古をしていなくても、その真髄のようなものは濱口監督から伝えられただろうし、俳優が感情過多な演技をしたら「もっとフラットに」という指導が入ったことはほぼ確実だと思う。

2021-09-23 00:23:42
ぼのぼの @masato009

そのような「感情過多な芝居を避け、全員が棒読みにある程度色をつけた程度の演技に徹する」ことでこの映画が獲得したものは、主に2つあるように思う。

2021-09-23 00:38:17
ぼのぼの @masato009

1つは、このような演技スタイル(台詞回し)にすることで、物語中に多くの貴重な余白が埋まれ、それが作品のスケールを何倍にも大きくしている。たとえばある台詞を感情たっぷりに表現したら、それは役者が発する悲しみなら悲しみという感情に塗りつぶされてしまう。

2021-09-23 00:38:17
ぼのぼの @masato009

しかしそのような観客に対して強制的とも言える感情表現を抑え、テキストだけを観客に放り投げることで、観客はそこに悲しみという言葉に収斂されない、より大きく複雑な感情や意味を「能動的」に感じ取ることができる。

2021-09-23 00:38:18
ぼのぼの @masato009

前者が「情報の発信」だとしたら、後者は「世界の提示」とでも言えばいいだろうか。

2021-09-23 00:38:18
ぼのぼの @masato009

この方法論は一歩間違えば退屈に陥るし、観客に能動性を求めること自体がある種の強制にもなってくる。つまりは、つまらない映画になる危険性が高い。そうならないためには映画としての尋常ならざる密度が必要だが、濱口竜介は、ありとあらゆる技法を駆使し、その困難を見事に克服している。

2021-09-23 00:38:19
ぼのぼの @masato009

もう1つ。この「自分の勝手な先入観で物語作り(=人生/人間関係)に参加せず、ただ相手の言葉に耳を傾けること」自体が、作品のテーマと直結しているということだ。

2021-09-23 00:49:48
ぼのぼの @masato009

村上春樹の原作を知っていれば、映画オリジナルな芝居作りのウェイトがあまりにも大きく、最初は面食らうが、濱口竜介がその両者(そしてもちろん『ワーニャおじさん』)から抽出した共通のテーマは、まさにその点にある。

2021-09-23 00:49:48
ぼのぼの @masato009

自分の勝手な思いに囚われない。ただ相手の声に素直に耳を傾ける。真の人間関係は、そこからしか生まれない。自分の思いに囚われたとき、人は相手の声に耳をふさいでしまう…そのようなテーマが、この作品内で手を替え品を替え描かれる。感情表現を抑えた台詞回しは、それを技法面で支えるものだ。

2021-09-23 00:49:49
ぼのぼの @masato009

@camin ただこの映画でも俳優たち(の演じる俳優たち)が、家福の徹底した棒読みに驚き、うんざりする様子が描かれていたから、少なくともこの映画内でそれは特殊なスタイルとして扱われていることは間違い無い。

2021-09-23 00:55:26
ぼのぼの @masato009

@camin あれは、家福が俳優・演出家として大御所のポジションにあり、参加する俳優たちは、必ずしも彼と同格ではないという関係だったからできたことのような気がする。その点では、暴言を吐いたりはしないにせよ、家福は微妙なパワハラ臭も漂う、若干古いタイプの演出家だと思う。

2021-09-23 00:58:47
ぼのぼの @masato009

@camin 演出家のイメージに関して言うと、もちろんほとんどの人は大枠のイメージを決めているだろうけれど、それは言わば簡単なデッサンのようなもので、具体的な色使いや、そもそも油彩がいいか水彩がいいかレベルのことも、役者の化学反応を見て決めていく…という人は意外といるのでは。

2021-09-23 01:11:24
ぼのぼの @masato009

@camin それとこれは芝居の内容にもよるね。古典やきっちりとした戯曲がある場合、演出家のイメージが明確にあるだろうし、戯曲だけ読むと、それがどんな舞台になるか分からない作品、台詞よりも身体パフォーマンスの比重が大きい作品(「水の駅」とか)の場合、役者と共に作っていく形になるのでは。

2021-09-23 01:13:41
ぼのぼの @masato009

この他チェーホフとの関連でいろいろ書きたいことがあるのだが、さすがに遅いので、また明日。

2021-09-23 01:45:09
ぼのぼの @masato009

ちなみに、今日の3回目で打ち止めにするつもりだったが、やはりまだ汲めども尽きぬ…という感じなので、10月8日までやっている川崎市アートセンターでもう一度見る予定。

2021-09-23 01:46:57
ぼのぼの @masato009

あらためて言うが、『ドライブ・マイ・カー』は、映画ファン以上に、演劇人と演劇ファン、そしてチェーホフ好きな人こそ必見の映画だからね。

2021-09-23 01:49:30
ぼのぼの @masato009

『ドライブ・マイ・カー』昨日書けなかったチェーホフ絡みの話を書く。本作の不満点の1つに、近年は喜劇的なタッチで上演することが正解とされるチェーホフ劇なのに、本作の『ワーニャおじさん』は極めてシリアスかつ悲劇的で、喜劇的な要素がまったく見られないということがあった。 pic.twitter.com/HLXWMdAIiU

2021-09-23 13:51:43
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ぼのぼの @masato009

しかし今回見直して、それは無理もないと思った。映画を見ながら、劇中劇のワーニャに脳内で喜劇的な演出を施してみると、どうにもしっくり来ないのだ。その場面だけならいい。しかしその前後の映画の流れから明らかに浮いてしまう。

2021-09-23 13:51:44
ぼのぼの @masato009

本作は決して『ワーニャおじさん』の舞台そのものではなく、そのテーマと物語を巧みに物語の中に取り入れた、かなり変化球なワーニャの映画化だ。決してワーニャの完全な映画化ではない。あくまでも『ドライブ・マイ・カー』という映画の要素として見た場合、ワーニャの喜劇的演出は作品に馴染まない。

2021-09-23 13:51:45