バタイユの「禁止と侵犯」,およびヘーゲル,コジェーブ,バタイユの「否定性」について

@sskytさんと@aOKOu521さんの,バタイユの「禁止と侵犯」,およびヘーゲル,コジェーブ,バタイユの「否定性」についての問答.
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眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 「ヘーゲルの精神は理性的ではないか」には、半分YESで半分NOですね。半分NOというのは、仰る通りヘーゲルの「悟性」と「理性」は違うからです。コジェーヴ‐バタイユ流に、悟性=理性=生産的な否定性だとすれば、ヘーゲルの精神はそういうものではないでしょう。

2011-08-24 15:59:29
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 逆に、ヘーゲル的な意味で「精神は理性の運動である」とするなら、YESです。『精神現象学』の「絶対知」章において、意識は歴史的世界が自己自身であると自覚することで絶対知になる訳ですが、そこで明らかになるのは、まさに精神が「純粋な否定性」であるということです。

2011-08-24 16:06:38
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 この「純粋な否定性」は「自己二重化Sichentzweien」の運動とも言われていますが、要するに、この否定性こそ、生産的な否定性と非生産的な否定性の根源にあるものだと考えます。この意味で、バタイユの否定性はコジェーヴよりもむしろヘーゲルに近い。

2011-08-24 16:08:57
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 勿論、ヘーゲル的な「理性の狡知」みたいな歴史観こそ目的論ではないか、と言われれば、そうかもしれません。

2011-08-24 16:10:48
眼鏡パンダ @sacreconomie

バタイユの友人で人類学者のA. メトローは、バタイユが「タブーは破られるために存在する」というモースの言葉に魅了され、禁止と違反の理論になったのだと指摘しますが、この命題は「なぜ破るのか、それはタブーがあるからだ。なぜタブーがあるのか、それは破るためだ」と言い換えられるでしょう。

2011-08-24 16:22:23
@aOKOu521

@sskyt なるほど。つまり、そもそもヘーゲルの『精神現象学』というのは、目的論的ではないということですね。そもそも「生産的」だとか「非生産的」と言われているような否定性もまた、「絶対知」において、「純粋な否定性」のなすわざだと「精神」は自覚する。

2011-08-24 19:05:27
@aOKOu521

@sskyt (これは結局、バタイユの言う「至高な自己意識」ということでしょうか。)

2011-08-24 19:05:43
@aOKOu521

@sskyt 話を最初に戻せば、「禁止と侵犯」もまた、その「純粋な否定性」のなす所産であり、ただわれわれにとってだけ、「侵犯」が目的であるかのように、思われてしまう。

2011-08-24 19:06:27
@aOKOu521

@sskyt もし「純粋な否定性」が駆動しており、それが「禁止」と「侵犯」を生んでいるのであれば、その運動(バタイユであれば、絶頂と衰退の運動と言うかもしれません)は永遠に続きます。なので、おっしゃる通り、「禁止」とはなにか、「侵犯」とはなにか、という問いでは、片付きません。

2011-08-24 19:06:33
@aOKOu521

@sskyt ですが、なぜ「内在性」へと「回帰」しなければならないのか、という問い、あるいは、なぜ侵犯をするのかという問いを投げかけたときに、「喪われた連続性へのノスタルジー」という仕方で語る『エロティシズム』には、バタイユ自身目的論的に書いてしまっているように思われます。

2011-08-24 19:06:49
@aOKOu521

@sskyt 実際sskytさんの議論は、バタイユ(非生産的な否定性)とコジェーヴ(生産的な否定性)を並べて、ヘーゲル(純粋な否定性)という形で話されているように、私には感じられました。もしそのような読みが可能であるならば、私にとってもヘーゲルはかなり魅力に感じます。

2011-08-24 19:07:07
@aOKOu521

@sskyt ですが、バタイユ自身が、あくまで非生産的否定性にこだわった以上、やはり、そこまでバタイユ自身は考慮に入れていなかったように思われるのですが、どうでしょうか。

2011-08-24 19:07:22
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 ひとつ確認しますが、生産的否定性でも非生産的否定性でもない、純粋な否定性が仮にあるとして、それは「生産的な」否定性だと思いますか?

2011-08-24 19:15:56
@aOKOu521

@sskyt いえ、「否定性」は「否定性」です。すべてが「否定性」のなすわざですが、ただ、その作用の仕方が、人間にとっては、「生産的」なものとして、「非生産的」なものとして現れるといったところでしょうか。もしかしたら、私は「否定性」を実体的なものとして捉えすぎていたのかもしれ

2011-08-24 19:27:26
@aOKOu521

@sskyt ません。。。こんがらがってきました・・・。

2011-08-24 19:28:02
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 外に出ているので、返信途切れ途切れになってすみません。お酒が入っているので、うまくお答えできるかはわかりませんが......。そうですね、純粋な否定性それ自体は、「生産的ではない」。そのかぎりにおいて「非生産的な」否定性な訳です。

2011-08-24 22:13:43
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 あえて図式的に示せば、生産的な否定性(労働)でも非生産的な否定性(破壊)でもない、根源的な否定性は、非生産的な訳です。このように理解するならば、そして、「非生産的否定性」を単なる破壊に限定しないならば、禁止と違反は等根源的な否定性の作用であり、目的論的でない。

2011-08-24 22:23:28
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 確かにエロティシズムのバタイユは一見すると単純な疎外論に「見える」し、内的体験の無目的性と矛盾しているように「見える」。しかし、だからと言って、「バタイユは矛盾している」とか「そこまで考えてない」と殊更言い立てることが、意味があることだとは思いません。

2011-08-24 22:28:39
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 バタイユはあんなに苦悩した内的体験のパラドクスを易々と忘れてエロティシズムを書いたのでしょうか? 私はむしろ「なぜそのように矛盾したように見える表現をするのか」「そこに働いている論理は何か」を考えることが、バタイユのテクストを読む意義だと考えています。

2011-08-24 22:32:01
@aOKOu521

@sskyt 「「なぜそのように矛盾したように見える表現をするのか」「そこに働いている論理は何か」を考えること」、まったくその通りだなと感じました。そのような態度で私も今一度後年の作品群に向き合いたいと思います。テクストへの向き合い方および否定性について大変勉強になりました。

2011-08-25 08:08:10
@aOKOu521

@sskyt まだまだ教えて頂くことも多いと思われますが、よろしくお願いいたします!ありがとうございました。

2011-08-25 08:09:20
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 ひとつ大切なことを思い出しました。今出先なので正確な頁数は言えませんが、『有罪者』の補遺(確かV, pp.383-384あたり)で、「否定性とは行為である」と同時に「否定性とは問いに付すものである」と、バタイユ自身が否定性を二義性として規定していたと思います。

2011-08-25 12:47:57
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 いえいえ、こちらこそ。私自身、バタイユのエロティシズム論はこれまで主題的に考えてきた訳ではありませんし、正直、読み方がよく分からないところがあります。また、議論できたら、嬉しいです。

2011-08-25 12:58:56