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2011年8月25日

バタイユの「禁止と侵犯」,およびヘーゲル,コジェーブ,バタイユの「否定性」について

@sskytさんと@aOKOu521さんの,バタイユの「禁止と侵犯」,およびヘーゲル,コジェーブ,バタイユの「否定性」についての問答.
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眼鏡パンダ @sacreconomie

禁止と違反というバタイユのエロティシズムは、やはり人間の特権化を意味しているでしょうね。とはいえ、他方で、バタイユは動物性への回帰も主張する訳です。バタイユの禁止と違反は、簡単に言うと、「そのまま出すより、我慢してから出した方がより気持ちいい」という論理なのだと思います。

2011-08-23 23:32:15
眼鏡パンダ @sacreconomie

ただし、「ドキュマン」時代のバタイユは、もっと人間と動物の境界が曖昧で、人間から動物へ、動物から人間へ変態するような、そうした「不定形な」人間観を持っていたと思う。

2011-08-23 23:46:47
眼鏡パンダ @sacreconomie

あ、そうだ、ひとつ思い出した。「禁止と違反」の論理がないと、パンチラのエロティシズムが上手く論じられない!

2011-08-24 00:20:12
眼鏡パンダ @sacreconomie

オイコノミアがキリスト教神学に移入された意義は、エフェソスに「神の中に世のはじめ以来ずっと隠されてきた秘義の摂理(オイコノミア)」とあるように、永遠の神の計画がキリストにおいて歴史的に実行されること、すなわち、歴史化にある。

2011-08-24 13:27:38
眼鏡パンダ @sacreconomie

それ以来、歴史はエコノミーによって形成されるべきもの、という考えが生まれた。あるいは、逆から言うと、オイコノミア概念こそが、永遠でもなく循環的時間でもない「歴史」というものを可能にした。

2011-08-24 13:30:42
@aOKOu521

初期の「不定形な」人間観、「人間性」と「動物性」との境界上の揺れ動きから、「禁止と侵犯」という「人間」から「動物性への回帰」という後期のバタイユというのは、どのように接合するのか、その媒介となるのは「無神学大全」だと思う。

2011-08-24 13:45:46
@aOKOu521

岩野先生の議論とも重なるのだけれども、根本的に戦後のバタイユの、「禁止と侵犯」というのはエロティシズムを「外側」から見て捉えていると思う。なぜなら、バタイユの言う体験は「目的視」しえないものであるわけで、にもかかわらず、「侵犯」が目的となっている感が否めない。

2011-08-24 13:47:33
@aOKOu521

『宗教の理論』でも議論が単純化されているきらいがある。「還元の還元」(モノへと還元された世界を内在性へと還元する。)が目的視されている。これでは、ただ生産物にしろを破壊して無化すればいい、ということになってしまう。

2011-08-24 13:51:14
@aOKOu521

(最近読んでいるので、ついこの話になってしまうのだけれども)「無神学大全」の『ニーチェについて』というのは、バタイユにとっては、道徳的探究の書、「道徳的な問い」(la question morale)である(O.C., VI, p. 189)。

2011-08-24 13:54:48
@aOKOu521

そこでは「企て」ではなく、いかにして「好運」に身を任せられるか、受動性に身を任すという方法がとられるわけで、そうしたとき、「目的性」というのは消失していくはずだ。『内的体験』から『ニーチェについて』というのは、実のところ、能動性から受動性へと方法を変えている。

2011-08-24 13:56:43
@aOKOu521

『内的体験』では、「内的体験の原理、それは企てによって企てから出ていくこと」(O.C., V, p. 60) であって、意図的に非意図的な体験を得ようとする「企て」。対して、『ニーチェ』(略称)についてでは、あくまで「好運」への意志。

2011-08-24 14:02:45
@aOKOu521

実際、「禁止と侵犯」の論理は、わかりやすいようでわからない。「動物性への回帰」が目的ならば、ただ死ねばいい。無機物へといい。でも帰ることはできない。 「禁止と侵犯」について、実際、研究者間でも見解わかれる?

2011-08-24 14:11:15
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 『ニーチェについて』で、好運という受動性に比重が置かれるようになったというのは、仰る通りですね。勿論、『内的体験』でも、単純にprojetの結果、体験を得るという話ではないと思います。ただ、「禁止と違反」が目的論的、疎外論的というはどうでしょうか。

2011-08-24 14:22:01
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 これは以前もやりとりしましたが、禁止する否定性と違反する否定性を分けて考えてしまうと、違反が意図的行為のように見えてしまいます。問題は、「ただ死ねばいい」でも「最初から働かなきゃいいじゃん」でもなく、そもそもなぜ禁止があるのか、ということです。

2011-08-24 14:25:40
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 バタイユは、否定性を生産的な営為に限定するコジェーブに反論して、「使い途のない否定性」を持ち出す訳ですから、否定性は禁止も違反もするものと考えなければなりません。そうした否定性の運動を考えるなら、禁止を乗り越えるべき違反という目的論ではないことになります。

2011-08-24 14:30:43
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 ひとつ付言すると、「不定形な」人間観から人間の特権化へと移行したのは、『宗教の理論』に見られる通り、否定性=死の意識という問題が、決定的に人間と動物を分けてしまったのだと思います。それは恐らく、コジェーヴ=ヘーゲルとの対決によって前面化してきた問題ですね。

2011-08-24 14:55:18
眼鏡パンダ @sacreconomie

ものすごく雑駁に言ってしまうと、「なぜ違反するのか――それは禁止があるからだ。なぜ禁止するのか――それは違反があるからだ」ということですかね。

2011-08-24 15:08:37
@aOKOu521

@sskyt 応答ありがとうございます。また御教授願います。たしかに禁止も侵犯も人間の否定性に基づくものですが、禁止は、理性的なのに対して、侵犯は、非理性的とはいえないでしょうか?(生産的と非生産的に対応しています。)

2011-08-24 15:12:09
@aOKOu521

@sskyt 禁止もまた実際のところ、理性的でない、といえるかもしれませんが、やはり労働にしてみても、現在の享受を否定するという意味で、未来の享受を目的にしていると思われます。時間的な観点からいえば、侵犯は、労働の生産物を、未来の生産のためではなく、

2011-08-24 15:12:58
@aOKOu521

@sskyt ただ純粋に瞬間的な享受のために消費するものだと思います。でこれはヘーゲル理解に関わることだと思います。私は実際コジェーヴしかまともに読んでいないので恐縮ですが、ヘーゲルの「精神」の運動、否定性に突き動かされる運動というのは、理性的なものではないのでしょうか。

2011-08-24 15:13:54
@aOKOu521

@sskyt もし目的性がないのであれば、いつまでも停滞的なあり方であり発展はないように思われます。

2011-08-24 15:14:46
@aOKOu521

@sskyt (議論の祖語のないように捕捉しますと、私は「理性」を、「悟性」と「理性」いうような細かい分け方をしておらず、ただ対象を識別し、分類し、それらを相互に結び付け、そこに一貫性を付与したりするようなあり方くらいにしか使っていません。拙い理解ですが。)

2011-08-24 15:16:57
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 ご指摘の通り、生産的な否定性は理性的なものであり、非生産的な否定性は非理性的なものだと思います。それは否定性の二つの側面であり、片方だけを取り出したり、単に対立するものと考えるならば、ヘーゲル流に言うと「抽象的否定性」や「悟性的対立」に堕してしまいます。

2011-08-24 15:24:38
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 生産的否定性だけを取り出すならば、コジェーヴのように世界全体が歴史化されることで、歴史は終焉する。また、非生産的な否定性だけ取り上げるならば、そもそもなぜこんな話をしているか分からない(笑) 要するに、どちらも絶対的な否定性の運動だということです。

2011-08-24 15:28:42
眼鏡パンダ @sacreconomie

@aOKOu521 「目的性がないと停滞的、発展しない」というのは、よく分かりませんが、そもそも歴史の発展自体は生産的な否定性の所産ではないですか。だから、生産的な否定性から見れば、歴史は発展する。しかし、その歴史自体は、未来に従属しない非生産的な否定性を前提とする。

2011-08-24 15:36:30
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