ライトノベル作家・扇智史のつぶやき小説『リンナチューン』
- mizunotori
- 4338
- 2
- 1
- 0
1
『風見おっはよ』 角から飛び出してきた鈴名が、 『風見おっはよ』『おっは』『っは』『っは』『っは』 無限につまずきながら手を振っている。ぼくは「おはよ、鈴名」と笑いながら交差点を通り過ぎる。 #rinna
2011-08-28 22:21:43やっぱり、鈴名の挨拶は、あの十月八日のそれがいちばん可愛らしい。 標識の下に鈴名が立っている。去年の三月、その日の彼女はすこし早く家を出て、 『来年は卒業式なんだよねえ』 と笑いかけてきたものだった。 『お別れしたら、泣きそうになっちゃうなあ』 #rinna
2011-08-28 22:23:38あの日よりいくぶん哀しげに、ぼくは彼女の声のピッチを『泣きそう』落とす。頬を染めてうつむいた鈴名には、それが『泣きそう』よく似合うから。 『泣きそう』『泣きそう』『泣きそうになっちゃう』 #rinna
2011-08-28 22:24:52未来を恐れて涙を浮かべる彼女は、でももう永遠に卒業しない。ぼくの横を歩いていた彼女は、ふとした微笑だけを残して、七月の彼女に移り変わる。ひんやりする風も、うっすら日に焼けた夏の鈴名の横顔をゆるがせはしない。うつむきがちに、 『……暑いね』 #rinna
2011-08-28 22:26:02彼女のささやくような声を『ね……』ぼくは長く長くリバーブさせる。その残響と同じくらい『……』ぼくらの間に微妙な距離感があった、夏の頃。 『風見は、夏休み、さ』 #rinna
2011-08-28 22:27:07ぼくは横目で、鈴名の足元に気を配る。彼女はよく、塀際の側溝に足を引っかけて転びそうになっていたものだった。たとえ彼女がただのログでも、ぼくのそういう癖は消えない。 #rinna
2011-08-28 22:28:00「風見、おはよう」 後ろから呼びかけられて振り返ると、湯河が曲がり角から顔を出した。朝から疲れた顔だ。 「おはよ、湯河。どうしたんだよ、朝から辛気臭い」 「あんたが今朝も抹香臭いからじゃないの」 「まっこう?」 「死人の匂いがするってこと」 #rinna
2011-08-28 22:29:10辛辣な単語で湯河はぼくをなじる。手中のスマートフォンにぼくを映し、 「やっぱり、また鈴名だ」 答えを待たずに湯河はぼくを追い越す。ぼくはわずかに早足で湯河を追いかけ、 『おいてかないでよ~』 鈴名がさらにその後ろから駆けてくる。 #rinna
2011-08-28 22:30:31湯河はぼくも鈴名も見ない。狭い路地にはぼくと湯河の足音と、それから鈴名のかすかなノイズが、 『足』『やい』『ら~』『り』『も~』 鈴名はぼくらにいつも追いつけなくて、だからぼくらが足を速めると鈴名のフレームが落ちてしまう。 #rinna
2011-08-28 22:31:43。虹色のグリッチが鈴名の周りで、火花みたいに飛び散る。 『あた』『って』『も言っ』『しょ~』 通学路に出て生徒とログが増えてくると、鈴名の姿はいっそう不確定で、 『ねむ』自転車が通り過ぎ『ねむ』自転車が通り過ぎ『一時間目って英語だっけ~、英語で低血圧って』 #rinna
2011-08-28 22:32:53虹色のグリッチが鈴名の周りで、火花みたいに飛び散る。 『あた』『って』『も言っ』『しょ~』 通学路に出て生徒とログが増えてくると、鈴名の姿はいっそう不確定で、 『ねむ』自転車が通り過ぎ『ねむ』自転車が通り過ぎ『一時間目って英語だっけ~、英語で低血圧って』 #rinna
2011-08-28 22:33:39「――っと」 手首をつかまれ引き戻された。目の前には電信柱、湯河はぼくの手首をつかんで呆れ顔、 「ぼうっとしないでよ」 「ありがと、湯河。でもぼくは大丈夫だって」 #rinna
2011-08-28 22:34:53つぶやくぼくのすぐそばで『てい』『てい』『てい』鈴名は電信柱とは全然関係なく『つあつ』『あつ』『あつ』百円ショップの拡張看板とぶつかってノイズをまき散らしている。 #rinna
2011-08-28 22:36:05『へ~』『へ~』『へ~』彼女がそこを歩いていた頃、まだショップは開店前で『初耳~』過去のログと現在のデータが干渉し合っている。 粉々になった鈴名の姿をスマホで見届け、湯河はため息。 「……ほっといたら風見まで死にそう」 「までって何だよ」 #rinna
2011-08-28 22:37:29『じゃあ高血圧は~?』 「せっかく生きてるんだから、命は大切にしろってこと。鈴名の後を追うことなんてないんだから」 「追いやしないよ。ぼくが生きてるかぎり鈴名も死なない」 #rinna
2011-08-28 22:38:22湯河が首を振って、他の生徒たちといっしょに歩き出す。湯河のウェーブする髪はぼくを待たない。 『あたしももっと伸ばしちゃおっかな~』 ようやく復帰した鈴名といっしょにぼくも歩き出す。細い道から走り出る自転車をやり過ごし、 #rinna
2011-08-28 22:39:22『風見は長いのと、短いの、どっちが好き~?』 道の先には古びたフェンスに囲まれた高校の校舎、その向こうには墓石のように白く巨大なデータセンターの上階がのぞいている。 #rinna
2011-08-28 22:40:11『長いのと、』『短いの、』『長いのと、』『短いの、』 空の色は、景色をうっすらと膜のように覆う。 『むしろ風見の髪をあたしが切ってあげたいな~』 ぼくは小さくあくびをした。 #rinna
2011-08-28 22:41:352
教室の中はすし詰めだった。 生徒たちと、それと同じ数ほどのソーシャルログが室内を満たしている。昨日の昼休みの椿事は今日もまだ大人気で、あちこちの机の上で『うりょっぱ!』と戯ける男子の映像が再生されている。その映像は次々に皆の手で加工され、原形を留めていない。 #rinna
2011-08-29 17:52:47当の男子本人もその変形に荷担して、自分の肘を不可能な方向にねじりながら屈託なく笑う。『うりょっぱ』『うりょっぱ』と、教室のそこかしこで彼は戯け続ける。 #rinna
2011-08-29 17:53:55そうやって、自分を共有してもらうこと、ログをいじってもらうことが、親愛の証になる。ログを映す画面が、コミュニケーションの仲立ちだ。 #rinna
2011-08-29 17:54:41ぼくの視聴覚を補助している眼鏡は、ネットに接続して拡張現実を表示してくれる。眼鏡なしでは鈴名(りんな)の声も聴けないけれど、ログの狂騒は生々しすぎて聞くに堪えない。無用なログを遮断し、ぼくは教室の後ろを歩いていく。 #rinna
2011-08-29 17:55:52席につくと、斜め前に座った七井(なない)がこっちを向いた。 「おはよう」 「おはよう」 ぼくは録音みたいに正確に答える。七井はぼくにも教室内の騒ぎにも目もくれず、机に向き直る。真っ直ぐ長い黒髪は、いろんなものを拒んでいるみたいだった。 #rinna
2011-08-29 17:57:10