クロアチア独立国第1軽歩兵降下大隊

ユーゴスラビア王国時代に設立された「第1軽歩兵降下中隊」は実戦の機会はなく、クロアチア独立国軍となってからは「第1軽歩兵降下大隊」にまで拡大されました。国産装備も開発されましたが実戦降下の機会はなく、精鋭地上部隊としてパルチザン掃討作戦に投入され悲惨な最期を迎えました。
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

ユーゴスラヴィア王国では1926年9月2日に早くも初めての降下訓練が行われ、1939年に降下学校と訓練部隊がベオグラード北東のパンチョボに開設された。1940年末には降下学校はノービサードの空軍基地に移転し訓練が続けられ、1941年3月1日には空軍降下学校から「第1軽歩兵降下中隊」が編成された。

2020-12-13 00:16:43
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

中隊の編成定数は180~190名で、3個小隊と1個支援小隊を持つが、実際に編成が完了したのは1個小隊のみで、第2中隊の編成計画は実現はしなかった。1941年4月6日ユーゴスラヴィア王国はドイツ軍を中心とした枢軸国軍の侵攻を受け、4月17日に降伏したため中隊は出動することなくサラエボで解隊された。

2020-12-13 00:21:59
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

ユーゴスラヴィア王国空軍が導入したのはアメリカ製のアーバイン型パラシュートであり、国内でライセンス生産された。このパラシュートは手動で開く形式であり、後に死亡事故も発生した。降下服は通常のグレーブルーの空軍制服の上にグレーグリーンの降下用オーバーオールを重ね着する方式であった。

2020-12-13 00:24:25
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主要火器はマウザー系列のボルトアクション式小銃であった。約100丁のトンプソン1928 A1サブマシンガンが50個のドラム弾庫とともに降下猟兵中隊用としてアメリカに発注され、1941年4月12日に到着しましたが、4月17日に降伏したため中隊には配備されることはなく、その後警察部隊に回されたとされる。

2020-12-13 00:25:43
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ユーゴスラヴィア王国軍からは約260~400名の空軍兵士がアンマン、ヨルダン経由でエジプトに脱出し連合軍側に加わった。連合軍側に脱出した王国軍将兵は約1,000名に達し、この兵員から「国王護衛大隊」が編成され、1943年にはスエズで降下中隊が設立され、イギリス軍により特殊作戦の訓練が行われた。

2020-12-13 01:36:03
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クロアチア独立国が建国されると、空軍内に再び降下猟兵部隊を創設する動きが始まり、1941年12月までに創設が決定され、1942年1月には空軍の志願兵により「第1軽歩兵降下中隊」が編成された。輸送機はAvia Fokker 三発機がドイツ軍から供給されたが、これはプラハの捕獲機デポから調達されていた。

2020-12-13 00:35:43
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コプリブニツァには新しい降下学校が開設され、1942年8月15日からは2名がドイツの降下学校に送られて降下猟兵の指導者としての訓練を受け10月20日に帰還した。パラシュートや降下服などの装備は旧ユーゴスラヴィア王国時代の物がそのまま使用され、中隊の降下訓練は11月26日から開始された。

2020-12-13 00:38:40
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1942年クロアチア独立国空軍から降下猟兵訓練のためにオーストリアの降下学校に訓練生が送られ、訓練終了後は第17空軍中隊として第4空軍地上連隊に配属された。1942年6月17日、連隊は東部戦線北部戦区で実戦を経験し、その後中隊はクロアチアに帰還したが「第1軽歩兵降下大隊」には編入されなかった。

2020-12-13 01:42:25
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

しかし12日19日に訓練生2名が墜落死する事故が発生し、訓練は一時中止された。事故は上空の寒気により訓練生が降下中に気絶したことで開傘操作ができなかったことが原因で、旧ユーゴスラビア王国軍時代からの降下服の改良が急務となり、新型迷彩降下服の開発とパラシュートの改良が行われた。

2020-12-13 00:41:05
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1943年4月7日、新型迷彩降下服を使用した訓練が再開され、1943年7月6日にはザグレブのBorongaj飛行場で国家指導者のアンテ・パヴェリチやスロヴァキア空軍の代表団も出席し盛大な展示演習が行われた。演習では3機のAvia Fokker 機から合計45名が降下し演習は無事成功した。twitter.com/Nasikandar_/st…

2020-12-13 00:45:01
マーノシュ @Nasikandar_

アンテ・パヴェリッチの訪問を受け、アヴィア社製フォッカーFⅦからパラシュート降下を披露するクロアチア独立国空軍の空挺部隊。独伊の傀儡国家ながら独自の空挺装備を持ち、専ら対パルチザン戦に従事した。 pic.twitter.com/d5LQhUxgDz

2020-03-22 20:15:18
マーノシュ @Nasikandar_

アンテ・パヴェリッチの訪問を受け、アヴィア社製フォッカーFⅦからパラシュート降下を披露するクロアチア独立国空軍の空挺部隊。独伊の傀儡国家ながら独自の空挺装備を持ち、専ら対パルチザン戦に従事した。 pic.twitter.com/d5LQhUxgDz

2020-03-22 20:15:18
マーノシュ @Nasikandar_

画質が悪く、ここでもジャンプスーツの迷彩パターンはよく分からん pic.twitter.com/VWIS1CCEia

2020-03-22 23:15:09
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マーノシュ @Nasikandar_

こないだのりっくさんと飲んだ時、クロアチア独立国軍の空挺部隊が着用してた迷彩ジャンプスーツの話してたんですが、迷彩の縁がギザギザになった周辺国には当時無さそうなパターンで、傀儡国家の割に独自の迷彩を導入してたのではという気がしてきた。 pic.twitter.com/PbSEgL2Rfn

2018-12-05 21:19:43
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のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1943年11月6日の夜、パルチザン部隊は10月革命26周年を記念してコプリブニツァへの攻撃を実施し、中隊は初めて本格的戦闘を経験した。攻撃は3個旅団と砲兵部隊を集結した強力なもので、中隊は飛行場と降下学校に立て籠って防戦に努めたものの、輸送機や備蓄パラシュートを失う大損害を被った。

2020-12-13 00:50:57
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

11月9日中隊は飛行場を放棄して北部のCarda地区のドイツ軍陣地へと後退し、ここで2日間闘ったあとさらにハンガリー国境近くのGolaへと後退した。中隊はハンガリーで再編成されザグレブに鉄道輸送された後はザグレブを新拠点としたが、ここで一時的に解散され一部の有資格者には長期休暇も与えられた。

2020-12-13 00:53:33
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

しかしこれはかえって士気の低下と混乱を招き、この時期にパルチザン側に走るものもあった。中隊はその後すぐに再建され、飛行場警備や各種式典の際の儀仗兵を務めた。同時に第2中隊が新編成され「第1軽歩兵降下大隊」へと拡大され、1944年末にはさらに第3、第4中隊も新編成され4個中隊となった。

2020-12-13 00:57:46
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

1945年1月以降、大隊はパルチザン掃討作戦に投入され、以後5月4日にザグレブに帰還するまで、大隊はパルチザンと激しい戦闘を繰り返して多くの勝利を勝ちとった。しかし戦線はいよいよ後退しており、ザグレブ帰還は「終わりの始まり」で、5月6日には軍旗が収納され西を目指して脱出行が始まった。

2020-12-13 01:05:34
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

大隊は「青い悪魔」(Plavi Djavoli)のニックネームで呼ばれるようになっており、多くの市民が見守る中をザグレブの通りを行進して出発し、オーストリアを目指す枢軸軍部隊とクロアチア民間人の隊列の殿としてひとまずはスロベニアのドラボグラードを目指した。

2020-12-13 01:17:29
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

後退する隊列はパルチザンの襲撃を受け、大隊もパルチザンンの封鎖を突破しつつヴィタニェまで達したが崩壊状態となり、以後は小グループに分かれて森林地帯をさまよった。大隊の一部は5月9日にドラボグラードに達したが、5月14日までにイギリス軍により武装解除され、大隊は事実上存在しなくなった。

2020-12-13 01:19:58
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

クロアチア独立国軍の降下猟兵部隊は「第1軽歩兵降下大隊」にまで拡大されたが実戦降下はなく、精鋭地上部隊としてパルチザン掃討作戦に投入され、悲惨な最期を迎えた。降下猟兵の大部分はパルチザン側に引き渡されて処刑され、少数のみが赦免されたが、ごく一部の幸運な人のみが西側に脱出できた。

2020-12-13 01:27:01
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

クロアチア軍、ウスタシャ、ドイツ軍は最後まで同床異夢の寄合所帯であり、様々な理由でパルチザン側に走って降下猟兵も少なくなかった。パルチザン側でも1944年10月14日に空挺大隊が設立され、旧ユーゴスラヴィア王国軍時代の経験者や「第1軽歩兵降下大隊」からの転向者も含まれていたと考えられる。

2020-12-13 01:29:27
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

この部隊は戦後のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国軍時代は「第63空挺旅団」となり、ユーゴスラヴィア解体後はセルビア軍の「第63空挺大隊」へと歴史が引き継がれている。

2020-12-13 01:32:03
のりっく@泡沫戦史研究所(マスコミに惑わされずマスク・手洗い・うがいで防衛!) @noricksakurai

なお、正史として「第63空挺大隊」の歴史は1944年10月に設立されたパルチザン空挺大隊から始まっており、クロアチア独立国の降下猟兵中隊/大隊には一切触れられていません。

2021-12-30 15:32:06