チトーとユーゴスラビア

タイトルどうりです 関連まとめ ヤセノヴァツ強制収容所について - Togetter http://togetter.com/li/326633
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@bukrd405

ヨシップ・チトーは、1892年、クロアチアのフルヴァツスコ・ザゴーリエ地方のクロムヴェッツ村で生まれた。父はクロアチアの農民フラニャ・ブローズ、母はスロヴェニア生まれのマリヤ・ヤヴェルシェクといった。2人には15人も子供ができたが、ヨシップは7番目の子供だった。

2012-07-22 22:17:20
@bukrd405

チトーは初等教育を故郷で終えたものの、何もすることがないので、クロアチアのシーサク町に移り、カラス親方の錠前を作る仕事場で働いた。そして1910年に手職を学び終えた後、ただちにザグレブに向かった。主都で仕事を見つけるためだが、そこにも仕事はなかった。

2012-07-22 22:23:09
@bukrd405

職を求めて彼はオーストリア=ハンガリー帝国内を渡り歩き、あちこちの労働者集会に出席して、労働者の指導者や社会主義者の話に聞き入った。1913年の秋、彼は、当時クロアチアが属していたオーストリア=ハンガリーの軍隊に召集される。

2012-07-22 22:25:29
@bukrd405

WWⅠが勃発すると、オーストリア軍には35万の南スラヴ人(ユーゴスラヴィア人)が動員されたが、その1人が22歳のヨシップ・プローズであった。

2012-07-22 22:28:56
@bukrd405

彼はロシア戦線へ向かう途上で、自分は社会主義者でありロシアの同砲を撃つ気はないと宣言したため、ノーヴィサード近くのペトロアヴァラディン要塞に投獄されてしまう。1915年春、結局彼はロシア戦線に送られ、そこで傷を負い、捕虜となった。

2012-07-22 22:30:02
@bukrd405

病が癒えると、ヨシップ・プローズは捕虜収容所を抜け出してペトログラードへ走り、首都のプチトロフスキー工場に入った。彼はここで7月まで働き、7月デモに加わっている。次いで彼は10月革命に巻き込まれる。捕虜としてシベリアへ送られる途中、なんとか脱走すると、

2012-07-22 22:32:55
@bukrd405

(承前)白衛軍のコサック兵を避けながらついにボリシェヴィキ軍に合流した。そして、赤軍内で仲間たち3万5000人と一緒に戦った。彼が共産党へ入党を許されたのは、このような騒然とした時代だった。

2012-07-22 22:36:32
@bukrd405

1918年、大戦が終わると、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、南スラヴ諸民族も「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人(後にユーゴスラヴィア人)王国」を宣し、共通の国家を持つことができた。しかしながら、真の統一は欠けていた。

2012-07-22 22:38:20
@bukrd405

戦争で破壊されたこの後進国では、土地のない者がほんのわずかな土地を得たにすぎなかった。農民は重税にあえぎ、返済のあてもない借金を繰り返していた。国内のいたるところで失業者の群れがあふれ、都市でも農村でも不満が渦巻いていた。

2012-07-22 22:39:49
@bukrd405

民族問題も社会問題もなおざりにされ、外国資本家から賄賂をとりたてる宮廷の側近だけがたちまち大金持ちとなっていった。国家は相次ぐ借款で身動きがとれなくなったが、改善の見込みはまるでなかった。

2012-07-22 22:42:04
@bukrd405

1920年8月、ソ連からヨシップ・ブローズが戻った故国は、こうした分裂状態の貧しい国だった。これより以前、10月革命に刺激されて、ユーゴスラヴィアでは共産党が結成されていた(1919年)。ユーゴ党はまもなくヨーロッパ最強の一つとなって、最初の総選挙では59の議席を獲得した。

2012-07-22 22:45:25
@bukrd405

だが、合法活動が許されたのは、さして長くはなかった。アレクサンダル王が禁止し、数年後にはジヴコヴィッチ将軍の下に軍事独裁を敷いたからである。地下闘争、ストライキ、逮捕が頻発した。

2012-07-22 22:54:24
@bukrd405

1928年ヨシップ・プローズはザグレブで、非合法党の活動を行った廉で逮捕され―当時彼は党地方委員会の書記だった―5年の禁固刑を科せられた。出獄すると、党の指令を受けて国を去り、ウィーンで、ユーゴスラヴィア共産党中央委員会および政治局の一員となった。

2012-07-22 22:59:28
@bukrd405

彼は各国の警察の監視の目を避けるため、しばしば偽名を使い、変装をして、いろいろな旅券で非合法に国境を突破していた。ヨシップ・プローズはモスクワにかなり滞在しているが、その間、コミンテルンのバルカン書記局で働いた。

2012-07-22 23:11:39
@bukrd405

スペイン内戦が勃発すると、ヨシップ・ブローズはパリに飛び、ユーゴスラヴィアおよび中欧からの義勇兵をスペインへ送り込む作業を組織する。各国から集まった義勇兵の中には、1600人を超えるユーゴ人が数えられた。

2012-07-22 23:15:14
@bukrd405

1936年、ヨシップ・ブローズは、派閥抗争で分裂し官憲に切り崩された党を再組織するために帰国した。彼は党書記長に選出されると、ユーゴ党の再組織にとりかかった。WWⅡが迫るにつれて。ユーゴの支配層は、次第に枢軸諸国へ接近していった。

2012-07-23 20:24:52
@bukrd405

1934年、アレクサンダル国王がマルセイユで暗殺されてから摂政に任ぜられていたパヴレ公は、1939年ベルリンを訪問し、ドイツとの同盟政策を確認する。この訪問によって両国の絆は一層強化され、2年後にはユーゴスラヴィアも三国同盟に加入することとなる。

2012-07-23 20:27:35
@bukrd405

1941年4月6日、250の戦闘機に掩護された484の爆撃機が、ドイツからユーゴスラヴィアの首都めがけて飛び立った。1万のベオグラード市民がこの急襲で死亡または負傷した。ユーゴの他の諸都市も同様な運命に見舞われた。

2012-07-23 20:31:02
@bukrd405

ペータル国王は閣僚を従え、飛行機で国外へ脱出する。占領された国土は戦利品として以下の通りに分割された。ホルティ提督のハンガリーはヴォイヴォディナを占拠。モンテネグロ、スロヴェニア南部、ダルマチアはイタリアへ。ブルガリアはマケドニア、セルビアの一部を取得。

2012-07-23 20:37:10
@bukrd405

クロアチアでは、「クロアチア独立国」として知られるファシストの傀儡国家が成立。一方、ドイツはスロヴェニア北部を併吞した。これに対し、チトー率いるユーゴスラヴィア共産党中央委員会は1941年7月4日、占領軍に対して立ち上がれ、と呼びかけた。

2012-07-23 20:44:43
@bukrd405

ユーゴスラヴィアの広大な国境は、至るところで、見事に装備したドイツ軍とその同盟者のイタリア、ハンガリー、ブルガリア軍によって突破された。貧弱な武装と無能な指揮官をいただくユーゴ軍は、これらドイツの機械化された軍隊に太刀打ちできず、1941年4月17日に降伏する。

2012-07-23 20:33:36
内田弘樹 @uchidahiroki

@bukrd405 ユーゴ戦役でのブルガリア軍ののっかりっぷりはひどいと思っていますw

2012-07-23 20:34:54
@bukrd405

@uchidahiroki ブルガリアは枢軸国の中では戦争による被害が一番少なくて、なんとなく上手く立ち回ったイメージですね。

2012-07-23 20:45:34
内田弘樹 @uchidahiroki

@bukrd405 ソ連に宣戦布告しなかったのがおおきいですよね。けど、米英には宣戦布告して、ユーゴではパルチザン戦やっているという。ユーゴの占領地を巡ってイタリア軍と戦ったという話を聞いたことがありますw

2012-07-23 20:47:54
@bukrd405

1941年夏の終わりごろには、ドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニック(セルビア人の王国軍)がドイツ軍に走った。占領軍はユーゴ全土に、チトーを引き渡した者に対し、生死に関わらす、10万ライヒ・マルクを支払うというポスターをばらまいた。

2012-07-23 20:50:46