チトーとユーゴスラビア

タイトルどうりです 関連まとめ ヤセノヴァツ強制収容所について - Togetter http://togetter.com/li/326633
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内田弘樹 @uchidahiroki

@bukrd405  チェトニクはかわいそうですが言い訳できませんよねぇw

2012-07-23 20:53:24
はいたか @HighTaka

@bukrd405 「石の花」を思い出しますな

2012-07-23 20:51:46
@bukrd405

1941年の暮れ、第一プロレタリア旅団が結成され、パルチザン軍は初めて正規の部隊を持つこととなる。他の正規軍もまもなく組織されていった。ユーゴスラヴィアは至るところゲリラ戦の戦場となり、占領軍が引いた国境線などまったく無視していた。

2012-07-23 21:01:53
@bukrd405

パルチザン兵は、ドイツ兵やイタリア兵はもとより、ブルガリア、ハンガリー、ウスタシャ、チェトニックの軍勢にも当たるを幸い戦っていた。パルチザン軍の機動力は、多数の負傷者を連れて行かなければならないため、大いに妨げられた。

2012-07-23 21:11:16
@bukrd405

例えば、1943年の第四次攻勢時がそうである。このときドイツ軍第五師団とイタリア軍第六師団は、かなりのウスタシャおよびチェトニック兵力ともども、パルチザンの本隊を殲滅すべく襲いかかってきた。それまでの戦闘で傷ついた4000の負傷者を救うため、厳しい戦いを強いられた。

2012-07-23 21:16:41
@bukrd405

1943年11月29日、第2回ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議がボスニアの古都、ヤイッツェで催された。それまでにユーゴスラヴィアの5分の1(ベルギーの国土に相当)が解放されていた。ここで行われた最も重要な決議は、将来の国家制度は連邦原理に立脚すべきだ、というものであった。

2012-07-23 21:22:51
@bukrd405

このころ、連合国もパルチザン軍に対して武器を送り込み、戦傷者の輸送に力を貸した。チトーの指揮下でパルチザン軍は、近代的な装備を施された約80万の兵力にふくれあがった。1944年10月には、ベオグラードその他の諸都市を解放する最後の戦いが始まった。

2012-07-23 21:29:04
@bukrd405

スーチェスカの戦闘では最高司令官チトーも負傷した。1943年6月9日、ゼレンゴーラで傷ついた直後のチトーとイヴァン・リバール博士。(画像) http://t.co/WUumUgQi

2012-07-23 21:32:49
@bukrd405

1943年10月、ヤイッツェ(ボスニア)におけるチトーと、第一プロレタリア部隊長コーチァ・ポポヴィッチ。(画像) http://t.co/LXJUz2xM

2012-07-23 21:37:30
@bukrd405

@jonathanohn @uchidahiroki @HighTaka まとめてくださってありがとうございます。ソースは、『チトー 英雄の生涯』(恒分社) http://t.co/7GPWzyw3 です。

2012-07-24 20:23:45
リンク t.co Amazon.co.jp: チトー―英雄の生涯 1892-1980 (1980年): 恒文社: 本 Amazon.co.jp: チトー―英雄の生涯 1892-1980 (1980年): 恒文社: 本